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読了報告スレッド♪5冊目

1 :吾輩は名無しである:2005/10/24(月) 08:47:15
ひたすら読了した本を書き込むスレ。
読んだ本の報告はなるべく詳しく(訳者・出版社等)。
簡単な感想などあったら尚良し。
新スレになったことだし、あなたもはじめてみてはいかが?

あと雑談はほどほどに楽しむ(「亡命王朝」でならフリー)。
長くなりそうなら雑談スレや作家別スレに移行して。

前スレ:読了報告スレッド♪4冊目
http://book3.2ch.net/test/read.cgi/book/1121693331/

「読了報告スレッド 黄金の亡命王朝」(荒らし対策用のレス保存倉庫。読みやすい)
http://dokuryo.blog25.fc2.com/
*レス(読了報告)への感想を書き込むのに最適。読了報告スレッド4冊目以降を収録しています。

過去ログは>>2

2 :過去ログ:2005/10/24(月) 08:49:33
「読了報告スレッド」
http://book3.2ch.net/test/read.cgi/book/1058920850/
http://shibuya.cool.ne.jp/mike_cat/2ch/lit/reading_log1.html(ミラーサイト)

「読了報告スレッド♪2冊目」
http://book3.2ch.net/test/read.cgi/book/1088812445/
http://shibuya.cool.ne.jp/mike_cat/2ch/lit/reading_log2.html(ミラーサイト)

「読了報告スレッド♪3冊目」
http://book3.2ch.net/test/read.cgi/book/1090287357/
http://shibuya.cool.ne.jp/mike_cat/2ch/lit/reading_log3.html(ミラーサイト)

3 :吾輩は名無しである:2005/10/24(月) 09:30:32
また美香の私物スレをたてたのか…

4 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/10/24(月) 09:52:27
「管理人」(ピンター/喜志哲雄訳/「戯曲全集1」/竹内書店)絶版

→戯曲。ピンターの代表作。ピンターはこれだけ読めばいいと思う。
それほどにピンター劇の特徴すべてがこの作品からうかがえる。
これを読んで、もし深く感じるものがあったら他の作品に手を出してみるべき。
試金石的な作品といえよう。入手も比較的容易。
竹内書店版、新潮社版、どちらの全集にも収録されている。
白水社「現代世界演劇7」にもおなじものが入っている。

「管理人」。何様かと笑われそうだがピンター作品で唯一感心したものである。
ほう、こんな劇があるのか。そんな目新しさがある。
主人公は薄汚い老人。
住み込みで働いていたレストランを首になったばかり。
宿無しの老人は、偶然知り合った男からうちに来ないかと誘われついていく。
この家の所有がテーマとなる。老人、誘った知人、その弟。
三者のあいだでこの家の所有が争われる。
法律上の所有者は弟。いまアパートに改装しているのは兄。
そのアパートの管理人として雇われたい老人。
この3人のあいだで狂気をはらんだせりふがやりとりされる。
そのせりふは暴力寸前。手が出る直前の物言いである。
何かがおかしい。誰かが狂っている。
しかし何がおかしいのか、誰が狂っているのかは終幕してもわからない。

ピンター劇は「わからない」と敬遠されることも少なくないらしい。
良くも悪くもピンター劇のキーワードはこの「わからない」にある。
われわれが生きる複雑な現実世界を真にわかるものなど誰もいまい。
が、従来の劇はそれを「わかるもの」に再構成して舞台に上げた。
ピンターはそれをよしとはしない。わからないまま舞台に提出しようとする。
それがピンターの劇である。「管理人」の世界である。

5 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/10/24(月) 10:26:24
「ナイト・スクール」(ピンター/沼沢洽治訳/「戯曲全集1」/竹内書店)絶版

→放送劇。のちに舞台化。
今まであえて避けてきたことばがある。不条理劇という用語である。
演劇史的な知識としてはピンター=不条理劇。これがすべてである。
代表作の「管理人」も不条理劇と評せば何かわかったような気になる。
そもそもこの不条理劇という用語。
マーティン・エスリンという演劇評論家の著書「不条理の演劇」が発端である。
ベケットやイヨネスコなどの(意味不明なw)新傾向の演劇を包括した用語。
便利な用語で、あれも不条理劇、これもそうだと、世界中に広まった。
が、忘れてはならないのは批評用語だということ。
だから意識的に使わないようにしてきた。批評を書いているわけではないのだから。
でも、まあ、それも行き過ぎはよくないかと反省し、このような説明を。
ご存知でしたら失礼をば。

「ナイト・スクール」。不条理劇の要素はほとんどない。
従来の劇のようなリアリズムの手法で書かれた軽い風俗喜劇。
刑務所を出所したちんぴらのウォルターが実家に戻る。
ウォルターはじぶんの部屋に下宿人が住んでいることを知り立腹する。
下宿人は小学校の女教師。まじめで夜学にも通っているという。
偶然からウォルターはこの女教師が夜学ではなく夜はホステスをしているとの疑惑を持つ。
証拠をつかもうと町の有力者に相談する。有力者は女教師が働いている酒場を発見。
その場で見初め口説き落とす。翌朝、女教師は下宿をひきはらう。
何も知らぬちんぴらのウォルター青年はかくして失恋したのであった。閉幕。

6 :吾輩は名無しである:2005/10/24(月) 10:33:39
美香さんに質問
イヨネスコのぽこちんはどんな感じでした?

7 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/10/24(月) 11:03:21
「帰郷」(ハロルド・ピンター/杉山誠訳/「今日の英米演劇4」白水社)絶版

→戯曲。もうため息が出ちゃう。ぜんぜんわからないんだもん。
わからない? おっと、そこがピンター劇の魅力か。
英国では日本よりもはるかに演劇文化が浸透しているから、
ふむ、たしかにピンターは観劇後に語る楽しみがあるのかもしれない。

あらすじ。
アメリカに住むテッディが妻を連れてロンドン北部のとある町へ帰郷する。
結婚後、実家に帰るのはこれがはじめてである。
テッディの妻ルースは夫の実家に住む男全員と関係を持つ。
ルースが夫の父、そして夫の弟2人となぜ寝たのかはわからない。
ピンター的な用語を使うと、テッディは妻を家族と共有したわけである。
ルースはその地で売春婦として働くことが決まる。夫の家族のためである。
テッディは妻を実家に残したまま、こどもの待つアメリカへ帰っていく。

あ、ネタバレについて。
いままでがんがんストーリーを書いてきているけど大丈夫。
というのも、わたくし。
ピンターを読む、そう一ヶ月前くらいかな。
この劇作家の代表作のあらすじを別の本で読んでいる。
あはは。ぜーんぶ忘れていました。
まった知らぬものとしてピンターの戯曲を読みました。
記憶力なんて、そんなものです、たぶん。

8 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/10/24(月) 11:46:22
「昔の日々」(ピンター/喜志哲雄訳/筑摩世界文学大系85「現代劇集」)絶版

→戯曲。外部からの脅威に混乱していく内部。
このピンター劇固有の構造は本作品でも踏襲される。
ふと、思う。なんでピンターさん、こんなにおなじパターンばかり書くのだろう。
戯曲の書き方としては(おおまかに)ふたつある。
自分の中から書く作劇法と、世界を見て書く作劇法のふたつである。
前者はストリンドベリ、テネシー・ウィリアムズが典型。
みずからの悲痛な経験を素材に劇世界を作り上げる。
後者はイプセン、バーナード・ショーを典型とする。
社会のありようを見て、それに対するアクションとしての劇作。
もちろんかならず両者は混合するものだが、ここでは比率を問題としている。
ピンター劇というのはどっちなのだろう。
不条理劇は一般的に世界観の問題から書かれることが多いように思われる。
だからピンターもおのれの目に映ずる世界を素材に一群の戯曲を書いたのか。
それともいわばトラウマ的なものが劇作のエネルギーになっているのか。
疑問としているのは、なぜピンターはこのような戯曲を書かなければならないのか。
そこにある。9つ戯曲を読んだいまでもそれがわからない。

「昔の日々」。
こどもがいない夫婦。田舎暮らしをしている。
妻は人見知りが激しい。そんな妻の唯一の友人(女)が10数年ぶりに訪ねてくる。
夫の知らない妻の一面を知っている友人が、このピンター劇における外部である。
内部は混乱を開始する。突如、むかしに戻ったようになる女同士の友情。
それは舞台上に顕現する。ピンター劇においては時間の流れすら逆流するのである。
われわれの生活にだって過去はそのように存在しているのではないか。
ピンターはそう問うているように思われる。復活する女の友情。疎外される夫。
三角関係のドラマ力学はかつてのピンター劇にも多く見られた。
三角関係は混濁する。夫は妻の友人と過去に会っていたのではないかという疑惑が生じる。
真実が最後まで明らかにされることがないのも他のピンター劇とおなじである。
かくのごとく語ればきりのないこの戯曲。問題がひとつある。……つまらないことである。

9 :美香 ◆FE5qBZxQnw :2005/10/24(月) 12:17:04
「せりふと動き 役者と観客のために」(福田恆存/玉川大学出版部)

何度でもいう。
福田逸先生!
あなたはお父様のご著作を読んでおられないのですか。
たとえば「せりふと動き」。
わたしなどよりよほどひどい誹謗中傷悪口が書かれています。
うまいなあと感心する。
あれほどうまく福田逸先生を切れたらと思う。が、できない。
お父様の批判対象となった役者はみんな福田先生の指摘を無視した。
あれ、あなたは福田先生のご子息では?
わたしの指摘を無視なさる。ええ、そうですか。なるほど。
お父様のお顔に泥を塗りたいと。ふーむ。
お父上のおかげでいまのステータスを得ていながら、はあ、ふむ、削除ですか。
ほう。いまになって反抗期とは、さぞ天国のお父様もお喜びでしょう。

10 :吾輩は名無しである:2005/10/24(月) 12:30:53
また白痴がきているな
こんなに一度に書かれたって読まないよ
書評書きたいなら文芸誌に投稿しろ
掲示板だってこと忘れるなよ

11 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/10/24(月) 12:51:11
>>7
訂正)→まったく知らぬものとしてピンターの戯曲を読みました。

「建築家とアッシリア皇帝」
(アラバール/利光哲夫訳/筑摩世界文学大系85「現代劇集」)絶版

→戯曲。作者のアラバールはスペイン人。
まず思ったのは、これは役者がやりたがるだろうなと。
うっかり役者気取りで、声に出して読んでしまった個所もある。
案の定、検索してみたら日本でも多数上演されている。
前衛劇……でしょう。初演は1967年。

孤島に飛行機が落下する。ただひとりの生存者はみずからを皇帝と称する。
島には先住するものがいた。自然を思いのままにあやつることができる男である。
皇帝はこの男を建築家と名づける。劇はこのふたりのやりとりに終始する。
救助を待つまでの時間つぶしに、ふたりは延々と「ごっこ遊び」をする。
つまりは演技だが、ふたりの行動は幼児のごとく遊戯的かつ狂躁的である。
母と息子、裁判官と被告といった具合に役割は矢継ぎ早に変わっていく。
この遊戯的演技の過程で、皇帝が母親を殺していたことが明らかになる。
贖罪(しょくざい)のため皇帝は建築家におのれを殺すよう依頼する。
さらにその死体を食べてくれるよう言い残す。
言われたとおり建築家は皇帝を殺害後に食す。すると建築家は皇帝になる!
もはや孤島にひとりきりである。数え切れないほどの長い時間、孤独をかみしめた。
ある日、爆発音がする。飛行機事故のようである。唯一の生存者が島に上陸する。
かつての建築家であった。こうして劇は最初に戻るわけである。

役者がやりたがるのも、批評家が論じたがるのもわかる。そういう劇である。
古くなった前衛ものに対するいつもの憫笑は禁じえなかったが、
それでもなかなかのものだと思う。機会があれば、読んでおいて損はないでしょう。

12 :吾輩は名無しである:2005/10/24(月) 13:14:41
美香の私物スレ

13 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/10/24(月) 13:19:49
>>10
お願いします。読んでください。だめですか。ならスルーをorz......
長いかぁ。短くしまっす♪

「貴婦人故郷に帰る」
(デュレンマット/岩淵達治訳筑摩世界文学大系85「現代劇集」)絶版

→戯曲。大富豪の貴婦人が故郷に帰る。彼女は年老いてもうおばあさんという年齢。
かつては繁栄を極めた故郷もいまはさびれた町になっている。
この老婆が、かの地で、むかし貧乏な娘時代にじぶんを妊娠させておきながら
冷酷に捨てた元恋人に復讐する。
それだけの話である。テーマは「正義」。
老婆は町の住民に布告する。正義のためにあの元恋人を殺してくれたらこの貧しい町と
その住民に多額の寄付をしよう。そう申し出るのである。
逡巡の挙句、町民たちは総意により「正義のために」その男を殺す。
劇全体が絶対的な「正義」に対する批評となっているのである。
が、そんなテーマなど考えなくてもこの劇は楽しい。
思ったのは、劇は筋がすべてではないということ。
筋をどう見せるかが重要なのだと気づかされた。
つまりいかにしてシンプルな物語を劇的にするか。その重要性である。
この戯曲は場のつなぎがとにかくうまいのである。

(追記)考えてみればシェイクスピアもそう。
シェイクスピア劇。物語は他の本からもらってきたものが大部分。
シェイクスピアの才能とは、物語を劇的に再構成するところにあったのである。

14 :吾輩は名無しである:2005/10/24(月) 13:23:14
ちんこ

15 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/10/24(月) 14:07:01
*言い訳をさせていただくとレスの大量投下はスレ即死防止の目的もあるわけで……。


「五重奏」(ピーター・シェファー/小田島雄志訳/「今日の英米演劇4」白水社)絶版

→戯曲。シェファーはイギリスの劇作家。「アマデウス」で有名。
ずっと積ん読していたのを読むのは、じぶんへの慰安の意味合いもある。
というのも、ずっと好きではない不条理劇に触れていたためストレスが。
シェファー劇は不条理とは無縁。
寡作のかれには熟練した劇作職人といったおもむきがある。
客を満足させるのこそ職人の使命だと自戒しているようにも思われる。
シェファーの劇作技術を世界ナンバー1と評した海外の演劇書を読んだことがある。
開幕後にすばやく観客の関心をすくいとり、それを閉幕まで決して手放さない。
人に教えたくない作家のひとり。わたしだけの作家。わたしのシェファー(w

「五重奏」はシェファーのデビュー作。これで大当たりを取る。
家庭劇。無学だが商売で成功した父。お金よりも芸術が大事と考える母。
ハムレットタイプの悩める大学生、息子。天真爛漫の妹。
この4人家族の内包する矛盾を解き放つきっかけとなるのが、
5番目に登場する妹の家庭教師である。
両親の価値観の違い。いさかい。そのはざまで苦しむこども。普遍的なテーマである。
舞台に上がるのは5人。それぞれに言い分がある。葛藤が生まれる。
それはさながら「五重奏」のようである。
5人から流れ出る調べは合流し、いつしか大音量となった葛藤はクライマックスを求める。
小手先の目新しさなどとうに飽食したおとなのための演劇である。

16 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

17 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/10/24(月) 14:50:16
「自分の耳」(ピーター・シェーファー/荒川哲生訳/テアトロ)絶版

→これを中央線沿いの某古書店で発見したときはうれしかったな〜。
検索したら探求書として登録されている。ネット古書店にも出ていない。
それだけ珍しい本なのです。へへへ、売らないぞ。
長いこと積ん読していたのは、読んだら終わってしまうから。
当たり前のことを言うなと嘲弄するのは愛書家の気持ちを知らぬもの!
……はい、ついに読んでしまいました。
感想は、さすがシェーファーと拍手するしかない。期待通りのおもしろさ。
こころに残る名作だった。そしてそれを所有するこの喜び。ああん。
青春の物悲しい挫折(失恋)が見事に描かれていました。


「他人の目」(ピーター・シェーファー/荒川哲生訳/テアトロ)絶版

→これを読んだらおしまい。シェーファーの邦訳戯曲をぜんぶ読んだことになる。
さみしい。が、いつかは読まなければならないのだからとじぶんに言い聞かせ読む。
期待にたがわぬ傑作。個性的な登場人物。先が読めない展開。意外な結末。感動。希望。
ドラマに必要なものをすべて携えている。
せりふを声に出さずにはいられない。巧妙ここにきわまれりである。
中年の会計士はじぶんより20も若い妻の浮気を疑う。
そこにあらわれる風変わりな私立探偵。さんざん待たされてから登場する妻。
結末には、ほろっとさせられる。人間って悪くないもんだなと思う。

「自分の耳」「他人の目」どちらも劇団「昴」で頻繁に上演されている。なんか悔しい。

18 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

19 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

20 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

21 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

22 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

23 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

24 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

25 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

26 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

27 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

28 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

29 :美香 ◆FE5qBZxQnw :2005/10/24(月) 16:56:11
誇大自己症候群 ちくま新書
岡田 尊司 (著)
価格: ¥777 (税込)


匿名掲示板に巣くう人々は現代社会の「無名敗残兵」として身分不相応の名声を求め、
勝ち目のない戦いに突入していく一方で、欲望を掻き立てられた意地汚い家畜として
自己愛的な充足を、ブザマな書き込みであがない、掲示板の独占で不快な現実を回避
し、ネットに埋没することで、心の中の空虚を忘れようとしている。
自己愛とネットの空虚を巡る堂々巡りに、人は人生を空費していく。そのあり方は、
欲望の絶え間ない充足によってしか自分を支えられないという点、及び、本当の現実
に対して向かい合うことを避けているという点において、「人格障害」的なのである。
そうしたあり方は、人間性の空洞化を意味し、その行く着く先は、人間の家畜化、存在
の浪費なのである。

30 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

31 :吾輩は名無しである:2005/10/24(月) 17:32:30
age

32 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2005/10/25(火) 19:04:44
『チャンセラー号の筏』 ジュール・ヴェルヌ 榊原晃三=訳 集英社文庫 1993年

 大西洋の真中で船が難破し、乗客と乗組員は、辛くも急ごしらえの筏で脱出する。
 その極限状況での人間ドラマが本書のテーマということになるのだろうが、人肉食にまで至る
凄惨なサバイバルや、その中で示される気高い態度、といった事よりも、ヴェルヌの描写が
冴えるのは、やはり自然現象に対する時だという印象を持った。
 闇の中を荒れ狂う暴風雨の中、船倉で起った火事のために、船体の真中から火柱を噴き上げる
チャンセラー号の様子は、散文的で簡潔な文章から、炎と闇と水の黙示録的なダイナミズムが
立ち上がってくる。
 島影一つ見えない、果てしない海の真中で、筏は嵐に遭遇する。その先触れとなって空を満たす
稲光の描写も、何か天地創造の一場面を想起させる。
 さて、そんな中に裸で放り出された人間様は、とことん無力である他はない。何人か、英雄的な
人間が出てこないこともないのだが、登場人物は、他のベルヌの作品に比べると、おしなべて影が
薄い。ここにはネモ艦長もリーデンブロック教授も出ては来ないのである。
 とうとう生存者達は、籤引きで犠牲者を決め、その肉を食べて飢えを凌ごうとするまでに追いつめ
られる。ここで突如として救済が訪れる。蛮行を阻止しようとして、誤って海に落ちた主人公は
海が真水に変わっていることを見出すのである。
 もちろんこれはヴェルヌの小説なので、その正体は神の起した奇跡でもなんでもなく、すぐに
最もな説明がなされる。一行はアマゾン川の河口にたどり着いたのだ。めでたし、めでたし。
 しかし、ここにはベルヌ的想像力の白眉の一つがあると思う。果てしなく四周をとりまく塩水が、
一瞬で真水に変わってしまうというイメージは魔術的だ。
 水、炎、大気という原初の物質がおりなす、こうした唯物論的な(?)神話こそが、本書のような
「人間ドラマ」にあっても、ベルヌの本質なのだと思う。

 (付記:今書いていて思い当たったのだが、海上での漂流が物語である本書でも、上に挙げた
三元素と並んで、「大地」のテーマがちゃんと顔を見せている。チャンセラー号が座礁する、不思議な
暗礁がそれである。かくしてベルヌの物質の神話は全きものとなるのである。)

33 :吾輩は名無しである:2005/10/25(火) 19:41:07
はいはいはい馬鹿の駄文馬鹿の駄文

34 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/10/28(金) 10:58:37
「ビギナーズ・クラシックス おくのほそ道(全)」(角川文庫)

→芭蕉の俳句に感動したことはない。
今年に入ってから日本の古典文学に関心を持つようになった。
いきがかり上、やむなくなんどか芭蕉の代表句を目にした。感想。
どの解説も絶唱だのなんだのとほめたたえているから、ならすごいんじゃないの?
芭蕉の俳句は教科書のようなものだと納得した。
教科書をつまらないと非難しても始まらない。そういう理屈である。
残念ながら山頭火の俳句を味わうときの感銘を芭蕉からは得られない。
読み手の品のなさが原因なのか。ならこればかりはいたしかたない。
今回「おくのほそ道」を読もうと思ったきっかけは山頭火をより深く味わいたいがため。
「万葉集」「古今集」「新古今集」「山家集」という流れの続きでもある。

「おくのほそ道」。やっつけ読書のつもりで本を開いたらこれがおもしろい。
「なーんだ、これ旅行エッセイじゃん!」と気づいたおかげである。
しばらく読み「それも上質の」と続けて思った。
旅行エッセイの中に置かれると芭蕉の俳句も生き生きと読めるのだからふしぎなもの。
「おくのほそ道」は旅の典型を描いたものではないか。
というのも、ここには旅の仕方が明確に示されている。
うーん、うまくいえないな。たとえばいま無数に出版されている旅行エッセイ。
読んでおもしろいと思う個所があるとする。
それらは実のところすべて「おくのほそ道」に描かれていた。
こう説明したらわかっていただける?

考えがまとまらない。近日中に再読するので、そのときに。
今日の結論。俳聖と呼ばれる芭蕉は近寄りがたい。
しかし旅ライターの芭蕉には惹かれるものがあるのである。

35 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/10/28(金) 11:29:12
「芭蕉 その生涯と芸術」(今栄蔵/日本放送出版協会)絶版

→元はNHK市民大学のテキスト。
ということは万人(バカ)のために書かれていると判断。つまりわかりやすいと。
甘かった。この大学教授は読者のことをあまり考えていない。
芭蕉を論じるじぶんのほうに重きを置いている。
かれが伝えたいと思っているのは、万民に愛される魅力を持った芭蕉ではない。
じぶんの思う芭蕉像を講義しなければ気がすまないらしい。
すると入門書ではなくなってしまうのは道理。

思うは角川文庫「ビギナーズ・クラシックス」のすばらしさ。
あれだけわかりやすく書くというのがどれほどたいへんなことなのか気づいたのは
この本のおかげ。角川文庫のあれは高校生でも理解できる。
芭蕉の全体像を先に知っておこうとこっちをはじめに読んでいたら、
おそらく芭蕉が嫌いになっていたことと思う。めぐりあわせに感謝する。

36 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/10/28(金) 12:10:17
「おくのほそ道」(松尾芭蕉/講談社文庫)

→角川文庫「ビギナーズ・クラシックス」は先に詳細な現代語訳を読ませる。
全部一気にではなく分割して。そのあとに対応する原文。最後に詳しい解説という構成。
こちらの講談社文庫は恒例の形式。
まず最初に原文をすべて。下段には校注。つぎに現代語訳オール。解説は芭蕉の生涯を概観。
おまけが充実しているのが、この講談社文庫版の特徴。
「おくのほそ道」に言及した近代文学者のエッセイが25収録されている。
これが目当てで買った。感想? まあ、みなさん芭蕉が好きなんですねと……。

原文や現代語訳を一気に読むときにも講談社文庫版のほうが便利。
おとといは原文を音読。きのうは現代語訳のみを黙読。
「おくのほそ道」は旅日記ではない。
つまり自然的ではなく、むしろ人工的だと再認識。
旅に出る。天候。ひとやものとの出会い。ままならぬ偶然事ばかりである。
いわば無意味な事件の連続である。
そんなものは旅ではないと芭蕉は思った。
だから「おくのほそ道」を書いた。これが旅だと言いたいがために。
偶然を必然にせんがための熱意。そこから「おくのほそ道」が生まれた。

37 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/10/28(金) 13:17:57
「ゆたかさへの旅」(森本哲郎/角川文庫)絶版

→古書店でふと気になりぱらぱらめくってみたらインドの都市の名前が。
ほほう、インド旅行エッセイかと早合点。
タイトルにインドの文字を入れてくれなきゃわからないじゃない〜と購入。
100円でインド本を集めているのである。
ところが、どーだい。この本はなんなのだろう。
小説か哲学エッセイか。少なくともインド旅行記ではなかった。
小説の形式を借りて、登場人物が哲学風のことを議論する。
ほら会話にしたら読みやすいから。高校参考書でもたまにあるあれです。
テーマは豊かさとは何か(微笑)。許してやってください。1972年出版なんです。
インドを神聖視する(苦笑)。どうかご勘弁を。あくまでも昭和47年の主張ですから。

去年、インドを旅行しました。3ヶ月。
聖地バラナシ(ベナレス)にいるんですよ。腐っちゃった旅行者。
日本人も。西欧人も。
日がな何をするでもなくぼ〜っと1ヶ月でも2ヶ月でもバラナシにいる。
「沈没」と旅行者のあいだでは呼ばれています。
バラナシ。生と死の混在。動物と人間が同列。流れゆくガンジス河。
哲学しちゃうんでしょうね。わかっちゃったような気になる。
そういう旅行者がいやでいやで3日我慢するのが精一杯でした。
だけど、あの沈没者たちの言いたいことをうまく説明すればこの本のようになるのではと。
いわば相容れない意見(インド神聖視)ながら、
その主張がコンパクトにまとまっているのがよろしい。そんなところでしょうか。

インド。どういう国なんでしょうかね。いまださっぱり……。
芭蕉は「おくのほそ道」を旅行後すぐに書いたわけではありません。
それどころか死ぬ直前まで何度も推敲を繰り返した。
余命を悟り、一応の完成を承諾したのは旅から5年後のことです。
それを考えるとわたしのインド旅行も実はまだはじまっていないのかもしれません。

38 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/10/28(金) 13:49:07
「酒恋うる話」(佐々木久子編/鎌倉書房)絶版

→お酒のエッセイを集めたもの。飲みながら読むと極楽〜♪
佐々木久子さんというのは編集者。
そのつながりで彼女が編集長&発行人をしていた趣味の雑誌「酒」に、
有名な作家たちが原稿料を取らないで書いてくれたらしい。
それをまとめたのが本書。類書は数あれど、これはかなりレベルが高い。
読みながら次はだれがでてくるのか楽しみで、ついついページを。お酒もごくごく。
映画監督の浦山桐郎がでてきたときは驚いたな。
良書。千円でも惜しくはない。ええ、わたしは百円で買いましたがね。

39 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/10/28(金) 14:16:46
「何用あって月世界へ 山本夏彦名言集」(植田康夫選/ネスコ発行/文藝春秋)

→山本夏彦は売文の天才である。
じぶんは読者に媚びを売らないと見せかけておきながら、
実際は読み手の気づかぬところで全力を傾けお客さんをもてなそうとつとめる。
読者をいい気分にさせるのがなんともうまい。
天才的ないかさま師というほかない。
露天商。大声をはりあげ罵倒する。なにごとかと客が集まる。
すると露天商は、これは売るための商品ではないと話をはじめる。
そのくせ最後には見事、在庫を完売している。
客はだまされたのに気がつかない。それどころかいい買い物をした満足感さえある。
この露天商こそ山本夏彦という、いかさま師の正体である。
大笑いした個所を引用。

「印刷された言葉には金が支払われる。新聞雑誌なら原稿料をくれる。
テレビラジオなら出演料をくれる。
すなわち私たちが接するのはすべて売買された言葉で、
売買されない言葉を見聞する機会は全くない。
言葉は売買されるとどうなるか。
売るものは買ってくれるものに迎合するようになる」(P122)

これもおそらく雑誌のコラムとして最初は発表されたもの。
どういうことか。じぶんはいかさま師であると最初に明言しているのだから、
ほかの詐欺師よりはいかほどかましだ。山本夏彦はそういっているのである。
それに気づいたあなたは見込みがあるとも。
読者自身に発見の喜びを与えるこのいかさま師の手腕の巧妙には脱帽する。
もう少し長生きをして、いまの2ちゃんねるを見たらどんな感想を持ったのだろうか。
ブックオフ105円本。文春文庫からも出ている。酒中書(=飲みながらいい気分で読みました)。

40 :吾輩は名無しである:2005/10/29(土) 02:06:36
豚のオナニー発見age

お前ら、荒らすんじゃないぞ!絶対に荒らすなよ!絶対だぞ!



41 :吾輩は名無しである:2005/10/29(土) 03:18:59


42 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

43 :吾輩は名無しである:2005/10/30(日) 01:04:41
 

44 :吾輩は名無しである:2005/10/30(日) 01:13:00


45 :吾輩は名無しである:2005/10/30(日) 01:17:16


46 :吾輩は名無しである:2005/10/30(日) 01:18:09


47 :吾輩は名無しである:2005/10/30(日) 01:19:25


48 :吾輩は名無しである:2005/10/30(日) 01:20:05


49 :吾輩は名無しである:2005/10/30(日) 01:23:12


50 :吾輩は名無しである:2005/10/30(日) 01:23:57


51 :吾輩は名無しである:2005/10/30(日) 22:20:00


52 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

53 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

54 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

55 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

56 :吾輩は名無しである:2005/10/31(月) 02:40:52
禿げ?

57 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2005/11/02(水) 20:11:46

『日本の近代小説』 中村光夫 岩波新書 1964年改版
『日本の現代小説』 中村光夫 岩波新書 1968年

 こうしたざっくりしたタイトルを掲げる書物は、どこまでも弛緩した精神のなせる
業か、強靭な知性の緊張の賜物であるかのどちらでかでしかありえない。
 もちろん中村の著作は、ごく稀な後者に属するのだ。私は一般に、こうした
「ガイドブック」的な本に対しては本能的な不信感を持つ者だが、そもそも混沌と
逸脱を本質とする歴史が、それも、文学者という個々人によって紡がれる文学史が、
かくもブレのない一貫したパースペクティブの元に、その多様性を失うことなく、
嘘のように平明に描かれていることには驚かされる。もっとも、その驚きにはなぜか、
くやしさに似た感情が幾分か混じってはいるのだけど。
 正確に言えば、この2冊の本は「文壇文学史」である。つまり、作家個人というよりは、
明治から昭和に至る、諸々の流派の興亡が主に語られている。この限定というか、
割り切りが、ある意味中村の面目躍如なのだと思う。岩波新書というコンパクトな
媒体で文学史を通観するには、こうした限定が不可欠なのは言うまでもないが、
その限定の仕方そのものを、著者の文学精神の表現としているところ、やはり
中村光夫は只者ではない。
 で、それら各流派の変遷は、ごく大雑把に言って、作家が「自己」と「他者」
(観念的次元)ないしは「社会」と「個人」(これは現実的次元)をどう捉えて
きたか、という足跡をたどることで語られている。
 この抽象化も、現実の複雑さを貧困化することなく、中村の語る歴史に力強さ
を与えている。

58 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2005/11/02(水) 20:14:12
(つづき)

 要は、中村は自分に何ができて、何ができないか、自分が何をすべきで、何を
すべきでないかを明確に心得ている、全き成熟の人なのだ。でも、いい年してガキっ
ぽさを脱することのできない私は、こうした知性にかすかな反発を覚えてしまう。
 「中村史観」によれば、文壇から見て傍流に位置する作家は、夏目漱石や森鴎外
ですら、「例外的存在」として扱われてしまう。太宰や安吾などについては言わず
もがなである。勿論、それらの作家が軽んぜられているわけではなくて、中村は
的確な評論を沿えて、自らのパースペクティブの中に、彼等各々に、相応しい位置を
与えることに成功してはいる。
 引っかかるのは、中村が歴史というバケモノを料理する際の、あまりの破綻のなさ
なのだ。岩波新書という性格を考慮に入れるにしてもである。
 まあ、ガキっぽい駄々ではある。「じゃあ、どうすればいいの?」と問い返されても
私には答えはない。たぶん、「個人」と「社会」に対する経験と思索と諦念において、
中村と私には天地の開きがあるということなのかも知れない。いずれにしても、私は
くやしいのである。いつか倒すぞ。

59 :吾輩は名無しである:2005/11/02(水) 22:16:04
またクソコテどもが私物化しようとしてるな

60 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2005/11/03(木) 01:04:47
『今はむかし ある文学的回想』 中村光夫 講談社 昭和45年

 還暦に近い著者が、学生時代からフランス留学直前までの交友を回想したもの。
 枯れた味わいの青春記、というか、正直ダシを取った後の鶏ガラみたいな、パサパサと
味気ない印象を受けた。
ところが最後の方、中原中也との交流を描いた部分だけ、急に桜色に血の気が差して
くるようで面白かった。
 著者は、酔った中也にビール瓶で殴られたエピソードを、かなり嬉しげに回想したり
などした後で、こんなエピソードを披瀝している。

  …遠慮なくいえば、僕は、この実践的な(引用者注:中原の)純粋性が、作詞の
 母胎としては実に有効だが、自己と現実との関係で或る短絡(ショート・サーキット)
 をおこしているのではないか、一度所有した絶対を手放して、相対の人間世界にもどる
 ことが必要なのではないかと思っていました。
  あるときそれをいうと、(中原)氏はしばらく瞑目して黙っていましたが、やがて
 首をゆっくり左右にふって、大きく両眼をあき「お前の評論はこうだからな。お前には
 そう見えるのだろうな」ともいいました。
  氏の「批判」はさすが正確で、僕は二の句がつげませんでした。氏が自分の道を
 まっしぐらに歩いて、詩に殉職してしまってから三十年たちますが、氏の倍の年齢に
 手のとどく今になって「絶対」を欠く人生の無意味がようやく実感されます。
 「どうだ、大分無駄飯を食ったな」と、うっかりあの世に行くと氏に言われそうです。

 残酷で美しい体験だと思う。著者はその後の生涯、ずっと中也の大きく見開かれた
両眼に見つめられていたのではないか。

61 :吾輩は名無しである:2005/11/03(木) 02:07:41
>>60




   長々と書くなら、もう少しマシな文章書いてくれる?






62 :吾輩は名無しである:2005/11/03(木) 07:59:10
いいぞムー♪GO!GO!ムー大陸♪

63 :吾輩は名無しである:2005/11/03(木) 22:49:19
私物化厳禁 私物化厳禁 私物化厳禁 私物化厳禁
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64 :吾輩は名無しである:2005/11/04(金) 13:32:11
美香は自分のサイトを作ってそこでオナニーしろ

65 :吾輩は名無しである:2005/11/04(金) 20:31:20
      〃. ;,;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,; .ヽ
     , 彳. ;,;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;/バ;ヾメ;:`ミ_;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,; .゙、
    //. ;,;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;//:7- __ _  ヾ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,; .ヽ
    ´/. ;,;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;//_/ ̄      ゙、;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,; .',
   〃. ;,;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;// /      _,,._ i;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,; .゙,
   《, ;,;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;∧ヾ、    ,;ii〃"゙`ミ;.i;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,; .i|
  、{. ;,;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;/ト〈、`゙,.  , ´ ,._.,.,、,_ `゙|;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,; .゙,
  i". ;,;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;リヘソ,> Y! i〃 <.(;・),゙ゞノ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,; .《     ほんと〜につまらぬものは人生。なにをやったってむだですよ
  ((. ;,;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;人"´`.:;;l l;.゙ `^''ーヾ`,リ!;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,; .リ
  ソ. ;,;;;;;;;;;;;;;;;;i      r'(;. );:..      l |;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,; .ヾ,     失敗したのも成功したのもあなたのせいじゃない
 ゞ. ;,;;;;;;;;;;;;;;;;;;i┘    ヽヘ、;ハ ,)      /!;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,; .ゞ
ヾ". ;,;;;;;;;;;;;;;;;;;;;|ヾ;:            ,:; 人;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,; .((._  < もうやめませんか自己啓発。生まれてきた条件・環境こそすべて
.`゙》. ;,;;;;;;;;;;;;;;;;;;| :;;i 、-‐‐:v.‐-:、_  〃;:  !;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,; .〃
.ノリ. ;,;;;;;;;;;;;;;;;;;;;゙、:;| `ヾニゞ‐;;;;ニフ  j|;.  /;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,; .{{
((. ;,;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;`、   - ̄    ,./;:. /;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,; .ソ,
_.)). ;,;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;/ilヽ、._  ;,.    ,.:-‐'"/;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,; .ノノ
彡. ;,;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;i;;》 \ニ ;`  ̄  . ::;〃─ン;;;;;;;;;;;;;;;;;;,; .'"<
ソノ. ;,;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;リノ!   \``ー  ;彡 /ミ;;;;;;;、;;、;;,; .乂ミヾ、


66 :吾輩は名無しである:2005/11/05(土) 02:36:45
>>64
同意。

67 :吾輩は名無しである:2005/11/07(月) 01:53:02
クソスレはここですか?

68 :吾輩は名無しである:2005/11/07(月) 01:53:41
いいえ、ここはオナニースレです。

69 :吾輩は名無しである:2005/11/08(火) 00:39:28
私物化してる豚はブログを始めたらしい

70 :吾輩は名無しである:2005/11/08(火) 05:31:15
コテハンの人達頑張って下さい。
私は読む本の参考にさせて頂いておりますよ。

71 :吾輩は名無しである:2005/11/08(火) 05:46:25
カポーティ『遠い声 遠い部屋』(新潮文庫)
     『カポーティ短篇集』(ちくま文芸文庫)

ヘミングウェイ『日はまた昇る』(岩波文庫)

アメリカ文学て楽しい。次は『武器はさらば』読みなおす。

72 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2005/11/08(火) 15:55:01
>>70
ありがとうございます。

『四十歳のオブローモフ』 後藤明生 文藝春秋 昭和四十八年

 作者自身の影と見られる団地住まいの作家の日常を、とりとめもなく綴った小説、
とまずは言えるのだが、さてその先が難しい。
 とにかく、面白いのです。でも、その面白さの質を説明するのが、これほど面倒な
作家も珍しいと思う。
 主人公の作家は、色々な次元で「宙吊り」の状況を生きている人物である。
 まず、東京近郊のマンモス団地の104号棟の303号室という、彼とその家族の住居が
いかにもという感じだ。5階建てのちょうど真中なわけである。
 次に表題にもある彼の年齢。四十歳が「不惑」とされるのも、人生五十年と見なされ
ていた時代の話で、例えば、主人公を襲う「二日酔いからさめかけの不安」なるものは
「何故だかわからないが、世界中の一切のものから自分一人が忘れ去られてしまうの
ではないか、といった不安なのである。生きながら、土中に葬られるような、恐怖
なのである、叫んでも、訴えても、誰一人振り向こうとはしない」といったものである。
 この感情は、主人公が小学生時代、だれもいない夏休みの校庭でぽつんと一人で立って
いた時の記憶とはるかに連なっている。少年時代を朝鮮半島で過ごした主人公は、終戦で
福岡に引揚げ、そこで青春時代を送るのだが、彼はその「第二の故郷」にはついに
馴染むことがない。主人公は講演のために福岡に帰省し、母親や兄弟の家族と一緒に
花見に出かける。そこで主人公がノスタルジーに襲われるとすれば、当然それは極めて
屈折した姿を取らざるを得ない。

 西公園は宗介の故郷ではなかった。その西公園の展望台から、埋め立てられて石油
 コンビナートになった博多湾を見下ろしながら、宗介は北朝鮮の小学校の、夏休みの
 校庭を思い出していた。そして、それは何故だろうかと考えていたのである。それは
 失われたものだからであろうか?それとも、どうしても失うことのできぬものだから
 だろうか?(268頁)

73 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2005/11/08(火) 15:56:11
(つづき)
 これまでクスクス笑いを伴いながら語られてきた主人公の「宙吊り」状態の水面下で、
故郷喪失者の悲しみが途切れることなく基調低音を奏でていることが、次第に明らかに
なってくる。
 ところで、「宗介」という名前は、夏目漱石の「門」の主人公と一字違いであり、
「オブローモフ」は、ゴンチャロフなるロシアの作家の小説に登場する怠け者の名だという
ことである。しかし、本書で作者が最も意識をしているのは二葉亭四迷の『平凡』だろう。
(ちなみに以上のことは、後書きで後藤本人が語っていることです)『平凡』の飼い犬に
まつわる甘美で悲痛なエピソードが、本書の最後で唐突に再現される。宗助の小学生の
長男が子犬を拾って来るのである。当然団地では犬は飼えない。

  お父さんだって我慢しているんだ! と宗介は叫び出したい気持ちだったのである。
 そして長男を力一ぱい抱きしめてやりたかった。長男はいま、悲しみを経験している。
 その小学五年生の悲しみが、人間そのものの悲しみであるように思われたからだ。
 (…)
 「とにかく、何か食べ物をやろうじゃないか」
  そのとき長男が、とつぜん、しゃくりあげた。宗介は耐えた。四十歳の男として、
 その人生におけるすべての経験の名において、何としてでも長男の悲しみに耐えなければ
 ならない。
 「とにかく牛乳を飲ませてやろう。それからお父さんと一緒に、その犬を捨てに行こう」
 (334-335頁)

74 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2005/11/08(火) 15:57:29
(つづき)
 宗介は、自分の「父親の役を演じている大根役者」ぶりを強く意識しながら、煙草を一本
取り出してくわえるのだが、その一瞬の間に、不可思議にも、息子と子犬は彼の眼前から
消えうせてしまう。

  玄関のドアは外側に向かってあけ放しのままだった。したがって、宗介の真正面に見えて
 いるのは、階段を挟んだ向い側の、閉じられたドアだった。304である。サンマルヨン。
 火のついていない煙草をくわえたまま宗介は、青ペンキで塗られた鉄製のドアに書かれた、
 白い数字を見ていた。(337頁)

 これが小説の結びである。夏目漱石や二葉亭四迷と、後藤明生とを隔てる何かが、ここに
現れているように思う。近代の文豪は、やりかたこそ各々違え、とにかくある「全体」を
小説に詰め込もうと試みたのではないだろうか。それに対して、後藤明生の場合、「全体」
は「外部」にあると言うべきだろう。この「外部」とは、小説に描かれている時制の過去や
未来としてあるもの、つまり、失われたものや、来るべきものではなく、また、本を読み
終えた我々が再び目にするもの、つまり、この現実でもなく、ある「絶対的な外部」であって
小説は、その絶対的な外部の気配を常に背後に感じながら、ひたすら宙吊りの時間を生きてゆく
ことになる。「全体」は、完成されうるものとして存在するのではなく、むしろその不可能性
と不可視性を存在基盤としている。後藤明生にとっての「故郷」とは、そうしたものの化身
だとは言えないだろうか。

75 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/11/11(金) 14:56:54
「ビギナーズ・クラシックス おくのほそ道(全)」(角川文庫)*再読

→旅行をしようと思い立ったらその土地のガイドブックを読むよりも、
芭蕉の「おくのほそ道」を読むべきだと思う。
なぜならここには旅のエッセンスが詰め込まれているから。
マニュアル本とさえ言いたいくらいに。
「おくのほそ道」は古典文学作品であると同時に、
まこと実践的に書かれた「旅行入門」である。

われわれはどこに位置しているのかという問いはむかしからあった。
位置。空間的位置(場所)と時間的位置(時代)のふたつで示される。
だが、時間的位置を個人が認識するのは容易ではない。
単調な日常生活を営んでいるものにはなおさらである。
だからひとは旅に出る。つまり強引に空間的位置を動かしてしまう。
すると連動していままで見えなかった時間的位置も様相をあらわす。
旅行目的の多くが名所旧跡訪問であることも、
おのれの時間的位置を把握したいという無意識の欲望の発現ではないか。
かくして旅によりふたつの位置認識(時間・場所)に交流が生まれる。
旅にはいつか終わりが来る。空間的位置の終着地である。
この自覚は旅人に時間的位置の終焉をも意識させる。死である。
芭蕉が「おくのほそ道」を以下のようにはじめたゆえんである。

「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」

76 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/11/11(金) 16:01:00
「シナリオの基礎技術」(新井一/ダヴィッド社)
「映画 テレビ シナリオの技術」(新井一/ダヴィッド社)

→ここ2週間、この2冊にかかりきりになっていた。
折しも、ツタヤ某店から「早春スケッチブック」という
全12回の連続ドラマをレンタルしていたため、
このシナリオ教則本と比較しながらドラマの仕組みを学習した。

どちらもシナリオ学習者ならだれでも知っている古典的な参考書。
だからだと思う。気乗りがせず2年以上積ん読していた。
読んでびっくり。ここまで教えてもいいももかと目を疑った。
ふつう名料理人はレシピを秘伝にするもの。
お客さんだって隠れた名レストランはひとに教えないもの。
しかしこの参考書にはそのような吝嗇(りんしょく=けち)が皆無なのである。
名ドラマ作成のための裏技が惜しげもなく公開されている。
へえ、そうだったのかと何度も手を打った。
以下にその内容を記す。

77 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/11/11(金) 16:41:27
(つづき)

戯曲とシナリオはまったくちがうものだということを思い知った。
アメリカの類書には戯曲もシナリオも似たようなものだと書かれていたので、
そんなものかとばかり思っていたわたしは仰天した。
本書によると映画・テレビはたしかに根を演劇に持つ。
しかし映像技術が発展した現在では両者は別物と思うべきである。
映像の特徴を一行でいうとするとこうなる。
「映像は(演劇に比して)空間と時間の自由度が高い」。
これに尽きる。この事実からシナリオの技術も要請された。

歴史的展開。はじめカメラは(演劇の)舞台全体を撮ることで満足していた。
フィルムによる芝居の再現である。
が、固定されたカメラを動かすものが登場する。
ここに映画の決定的な飛躍があったという。
カメラは舞台上の特定の役者のアップのみを撮ることができる。
小道具だけを映し出すことも可能になる。
演劇の観客は舞台上ならどこを見てもよかった。
しかし映画館の観客はカメラが指定したところしか見ることができない。
映像芸術の完成である。
カメラは役者の目にもなる。たとえば暴漢に襲われるシーン。
被害者の目で振り下ろされる凶器を見ることができる。
専門用語で「見た目」というこの技術により、
映像は観客と役者の一体化・同一化を助ける。深い感情移入を可能とする。
演劇の観客が目撃するだけなのに対して、映像の視聴者は体験するのである。

ドラマは葛藤であるとはよくいわれることである。
演劇の葛藤は人と人の間のものだけである。
しかし映像では画面と画面の葛藤もドラマを生み出しうる。
たとえばキリギリスのように遊び暮らす男がいる。アリのように働き通しの男がいる。
両者の画面を前後して映せば葛藤となる。
以上、映像の優位性を述べた。つぎにシナリオの問題を。

78 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/11/11(金) 17:18:39
(つづき)

もう一度述べると、映像の特徴は時間と空間の自由度が高いことである。
必然的にその特徴がシナリオにでは困難に転化する。
つまりシナリオで難しいのは時間と空間の取り扱い方である。

時間。
シナリオというのはいかに時間を盗むかがポイントになるという。
連続ドラマなら3ヶ月の生活を10時間で描かなければならない。
2時間ドラマで「女の一生」を映し出さなければならないこともある。
なら、どうすればよいのか。
あるシーンから別のシーンへ移る。その際にいかに時間を盗むか。
ナレーション法、タイトル法、しりとり法、カットバック法とあるという。
いままでそんなことを意識してテレビや映画を見たことがなかったので新鮮だった。

空間。
人物の出入りがシナリオでは難しいという。これも言われてはじめて気づいた。
大きくわけてふたつあるらしい。
板付き法(人物が最初から舞台にいる)。
空舞台法(最初は舞台上は空。役者がそこにあらわれる)。
このふたつの混合もある。
男がすでにいて(板付き法)、遅れて女が登場する(空舞台法)などなど。
それぞれ意味がある。板付き法ばかりだと動きのない「絵」が続くことになる。

テレビ。
すぐチャンネルを変えられてしまう。ファーストシーンでいかにつなぎとめるか。
これもふたつあるという。
張り手型(いきなりショックを与える。が、あとで事情説明が必要なのが難)。
撫ぜ型(日常のありふれた茶の間などからはじめ親しみを持ってもらう)。
こういう専門用語って、おもしろい! 舞台裏を覗き見る感じ。
「基礎技術」222ページに専門用語の紹介がある。たまらない。
以上のようなことを意識してテレビを見ると工夫がわかってより楽しめる。

79 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/11/11(金) 17:42:12
(つづき)

感想。シナリオを書くのはそう簡単じゃないぞと気づいた。
いままでつまらないテレビドラマや映画をさんざんけなしてきた。
じぶんのほうがもっとおもしろいものを書けるという気持ちもあった。
だからこの本を読んだわけである。
しかし内部事情を知るとそうきつくもいえないとなぜか弱腰に……。
まず「絵」をあたまに作るのがシナリオ創作の勘所だという。
だけど、あはは、わたし映画はきらいでほとんど見ていないからな、うーむ。

最後に。
この本は聖典化されている。が、中には明らかな誤りがいくつかあった。指摘する。
分裂したセリフを書いてはいけないとある。
というのも、そんなことをしたら精神分裂病の人物ができあがってしまう。
そう書かれている。数えた。お気に入りの決まり文句らしく3度も書いていた。
誤りである。精神分裂病だからといって分裂したことを言うわけではない。

オニールは前衛作家との著述がある。首を傾げたくなった。
あと、オニールが戯曲で独白ばかり使っていたようなことが書いてある。
誤りである。「奇妙な幕間狂言」で一度使っただけである。

ギリシア悲劇にはかならずコミックリリーフ(喜劇的救済)がいたという。
誤りである。なかにはそういうのもあったというだけのはなし。
以上、著者の博識自慢に対抗してわたしもおなじことをやってみた。

80 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/11/11(金) 18:20:27
「早春スケッチブック」(山田太一/新潮文庫)*再読

→テレビドラマシナリオ。ツタヤで本作のDVDを借りてきて見た。
せっかくだからと二度見ることにした。
その際、シナリオを開きながら活字がどう映像化されているかを勉強した。

視聴率が7.9%だったという。低視聴率。
納得。第1話から第4話までがとにかく退屈。動きがない。
山崎務と鶴見辰吾の会話が延々と続く。これじゃ視聴者はついてこない。
シナリオで読んだときはそれほど気にならなかったが。
第5話で山崎務と岩下志麻が会うにいたってようやくドラマが動き出す。

役者はセリフをシナリオどおりに言っていない。
語順を変えるくらいなら当たり前。
中には表現を変えてあるところまであった(内容は変えていない)。
で、シナリオのセリフと役者の口からでたものを比べると、
たしかに役者のセリフのほうが適切に思えた。
岩下志麻なら(シナリオにあるよりも)こう言うほうが自然だと。
あと山田ドラマは「泣く」ところまで指定している。
で、指定されていないところで岩下志麻が泣いていた。
そこが実にすばらしい名シーンになっている。役者&演出の勝利か?
概して役者はセリフ以外のところで演技をしたがるものだと気がついた。
セリフは所詮、脚本家に言わせられているもの。
じぶんはそこ以外のところで勝負したいという野心を役者は持つものなのか。
それをわかっているのでしょう。
山田太一も要所要所で「役者の仕所(しどころ)=無言シーン」を作っている。

最終話。かなりシナリオをカットしているけどこれは許可を取ったのかな。
山田太一はシナリオを勝手に変えられるのを嫌悪していると聞く。
あ、ドラマの内容にはまったく触れませんでした。名作です。見てください。
ツタヤ新宿店にありますから。発見したときは狂喜乱舞しました。

81 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/11/11(金) 18:43:04
「何が終わり、何が始まっているのか」(山田太一+福田和也/PHP研究所)絶版

→奇妙な組み合わの対談本。病院の待合室で読みました。
あれですあれ。よくあるあれ。
いまのニッポンの危機とやらを高みから(ここポイント!)見下ろす。
ひとりでやればいいものを、さみしいのかふたりで(笑)。
福田が相手だからか山田太一さんもわけのわかんないことをいう。
哲学的とでもいうのか。まいっちゃう。
しかし山田太一の魅力というのはこれなんだ。
妙に哲学的で硬い部分と、軽薄なテレビライターとしての好奇心の融合。
ここから数々の名ドラマを生み出してきたのである。
ブックオフ105円本。

82 :吾輩は名無しである:2005/11/11(金) 22:24:29
また豚が住み着いてる

83 :吾輩は名無しである:2005/11/11(金) 22:28:54
自分のブログでやれよ

84 :吾輩は名無しである:2005/11/11(金) 22:29:19
友達が少ないおかげで、全頁読破できた書物は数知れない(下手に友達が
いたら絶対妨害されてた)。英英辞典、シソーラス、Time誌、Le Monde、
法学の基本書・判例(国立国会図書館の蔵書も含む)、司法試験&外交官
試験過去問、政府刊行物、思想・哲学書(浅田彰推薦の著作も含む)、
岩波文庫(500冊程度)、米国の国際法・経済学・ファイナンス・金融
工学・物理・生物・化学・ディベート・論文作成・音楽テキスト、ブルデュー
社会学(藤原書店)、岩波講座・現代数学の展開、スミルノフ高等数学教程、
漢和辞典、岩波数学辞典、社会学辞典(有斐閣)、ブリュッケの芸術関連図書、
American Economic Review、精神分析用語辞典(みすず書房)、医学部の論文
(東大本郷から盗んだ本だが誰も読まないであろう専門書だから支障ナシ)など。
友達が多ければ、もう少し建築論、文学(新潮文庫程度だが)、先物取引
&株投資、ミシュラン&旅行関連、青チャート、LECや伊藤塾の即席要点集、
出る単・NHK英会話、映画、スポーツ、芸能、中学・高校・大学入試参考書
(和田秀樹推薦)、ベストセラー(朝日新聞掲載)なども読めたと思うが、
やっぱり友達少なくてよかった。学術版ニート・ひきこもり・オタクは最高w

85 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2005/11/11(金) 23:48:22
>>84
ネタでも面白いから亡命王朝にのっけようかな〜と思ったのだが
ググッたらコピペであることが判明。残念でR。

86 :吾輩は名無しである:2005/11/11(金) 23:56:12
いや、作者の私ですけどw
それにコピペしたのも私一人です。
あんまり他人にコピペされない内容だと思うけどなww
本当にあれだけ読んでる人は少ないわけだし。

87 :吾輩は名無しである:2005/11/11(金) 23:56:36
>>85
そんなのいちいち書き込むことか?
最初からその豚王朝とやらでやってろよお前ら。

88 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2005/11/12(土) 00:10:19
>>86
了解です。謹んで王朝に保存させていただきます。尊敬します。
>>87
そんなのいちいちageて言うことですかいw

89 :吾輩は名無しである:2005/11/12(土) 00:44:08


ひょっとしてまた、速読詐欺がはじまるのかな〜〜w




90 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2005/11/14(月) 19:42:35

『首塚の上のアドバルーン』 後藤明生 講談社文芸文庫 1999年

 この小説が書かれたのは1986年から89年、バブル真っ盛りの時代である。
 著者は、幕張の新築マンションの14階に引っ越してくる。小説は、その14階の
ベランダから眺められる、急速に変貌してゆく千葉の湾岸地域の風景を出発点にして
いる。ちなみに今調べたら、この時期はちょうど京葉線の開通前後にあたる。幕張
メッセがオープンしたのが89年、ついでに東京ディズニーランドの開業は83年である。
この、イケているような、いないような、極めて散文的なロケーションからして、何と
言うか、非常に後藤明生的だと思う。
 著者は、その建設ラッシュまっさかりの風景の中に、「こんもり繁った丘のようなもの」
を見出す。やがてそれは、「馬加(まくわり)氏」なる室町時代の地方領主の首塚である
ことがわかる。そこから小説は、様々な「首」をめぐって、「太平記」や「平家物語」を
はじめとする、膨大な文書の海にフラフラ彷徨い出すのである。
 後藤明生の面白いところは、現在の千葉の慌しく変化してゆく時間と、文書によって
掘り起こされる、いわば考古学的、地層的な時間の間に、何の垣根も設けていないこと
だと思う。この意図的な遠近法の廃棄はまず、高層マンションから眺められる地表の風景
として予告される。そこに現れる特権的な色彩は「黄色」である。後藤は、クレーの絵
「建造中のL広場」についてこう語る。

 (…)それらの家や塔やドームはL広場の周りに、すでに存在しているようにも見える。
 同時に存在のPlanに過ぎないようにも見える。存在と<存在予定>(原文では傍点)
 の中間といった不安定な存在の仕方です。
  未定、予定、未完成、不確実、不安、変化の予兆、存在と非在の中間、緑と茶あるいは
 オレンジの境界。黄色というのは、そんな色かも知れません。つまり「建造中」です。
 建築現場の色です。横にひょろ長いS字に囲まれた黄色い地面に書かれた、L・Platz
 の文字は、建築現場の資材にエナメルで塗られた標識のようにも見える。(70-71頁)

91 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2005/11/14(月) 19:43:46
(つづき)
 上の引用に、後藤の文学精神を読み取ることはたやすい。後藤の小説は、端から端まで、
このニュアンスを欠いた「建造中」の黄色で塗りたくられている、というか、書かれている
言葉そのものがそういう性格を持っている。後藤の後期の小説をしだいに占めてゆく、
書簡風の「ですます」調は、まさに「クレーの絵」と「建築現場」をなかだちする機能を担わ
されているのではないか。
 でも、ここに現れているのは、全ての差異や遠近が撤廃された平坦な空間なのではない、
ととりあえず言っておきたいと思う。後藤のよく口にする「楕円」理論においても、二つの
「焦点」そのものが消失するわけではないからだ。「黄色」は、それ自身としてはニュアンス
を欠いていながら――むしろ、そのために――他のあらゆる色彩を、そのニュアンスを通過
するのである。先の引用の直後から続けて見る。

  黄色い地面のところどころに、薄い黄緑の塊が見えます。その一つが、S字道路に面した
 真正面の、黄色い四角い家のすぐうしろにあります。黄緑の塊は黄色い家の半分くらいです。
 しかし、黄緑と黄色は互いに境界を無視して、相手の領域内にはみ出しています。つまり
 緑の下半分は黄色い家の屋根にかぶさっており、一方、四角い四階建ての黄色い家の、三階
 および四階の窓は緑の領域に割り込んでいます。(71頁)

 この「互いに境界を無視して、相手の領域内にはみ出」る運動が、後藤の全ての小説を
貫いていることは言うまでもない。でも、後藤の真骨頂は、この後に続く一言にあるように
思われてならない。

  ここで、あっとおどろきました。L・Platzとはどこにあるのか。もちろん、どこだって
 構いません。クレーの『建造中のL広場』は一九二三年作となっています。しかし、それは
 一九八七年の十四階のベランダからの眺めそっくりです。S字型六車線に面した巨大な
 黄色い箱とその後ろの首塚の丘にそっくりです。(71頁)

92 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2005/11/14(月) 19:44:44
(つづき)
 後藤のすごさは、ここで「あっとおどろきました」などという、美しいどころか、むしろ
読む者の緊張に水を差すような、調子外れで素人くさいフレーズをさしはさむところにある。
なんせ「あっとおどろきました」である。しかも、読者は先行する風景描写で、とっくに
二者が「そっくり」なことには気がついているのだ。そこで、白々しくも真剣に、「あっと
おどろ」いてみせること。作者と作中人物との関係にも「楕円」を持ち込むこと。この反=
韜晦とでも言うべき困難な身振りに、後藤の抱える危機と、そこからの創造の秘密が隠れて
いるように思う。全て平均化された黄色の世界のただ中において、あらゆる色彩を見出すこと。
しかし、それらの色彩を決して固定せず、常に黄色に立ち戻ること。それによって、むしろ
各々の色彩は固定して死んだ状態ではなく、純粋な運動として立ち現れてくるのである。
 そう、新田義貞の首も、平家物語の数々の首も、馬加氏の首も、現在の湾岸地域の殺伐と
した日常と、確かに繋がっているのだ。これは「文学上」の関係ではない。むしろ、その
「関係」のために文学がある。しかし、その関係を生きるためには、決してある出来事を
特別なドラマに仕立て上げてはならない。全てを語り終わり、またもとの黄色に戻った後に
「あっとおどろきました」などとトボけてみせればよいのだ。

93 :吾輩は名無しである:2005/11/17(木) 05:00:37


94 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/11/18(金) 15:00:48
「シナリオの基礎Q&A」(新井一・原島将郎/ダヴィッド社)

→「シナリオの基礎技術」「映画 テレビ シナリオの技術」を読んだので、
同著者のこれもついでだからと。前著との重複もかなりあるが、丁寧な一問一答形式。

最近のテレビドラマや映画を見ていますか?
わたしはぜんぜん。テレビはちらっと見てもすぐ消してしまう。
もちろんおもしろくないからだけど、べつに非難しようとも思わない。
あのような軽いノリがいまは受けるのだろうから。
テレビ局だってボランティアではない。多くのひとが求めているのを放送するのは当然。
むしろ間違っているのはこちらのほう。わたしが好きなのは山田太一ドラマ。
だけど、あんな感じのをいまやったところで視聴者の共感は得られない。
だからむかしはよかった、なんてことは言わない。時代がちがうだけ。

2ちゃんねる創作板のシナリオ関係のスレッドを読む。
いかにプロデューサーとコネをつけるかが話題になっていた。
どうやらこういうことらしい。いまのテレビは完全にプロデューサー主導。
プロデューサー様の、時代の最先端のさらに先を行ったアイディアが最重要(笑)。
シナリオライターはそのアイディアをもっとも正確に再現してくれるひとが選ばれる。
それからP様が売れている芸能人をピックアップ。かくしてドラマができあがる。

仕方がない。過去の山田ドラマのシナリオを読むことで我慢するか。
山田太一。シナリオを書くまえに役者が決まっていたほうが書きやすかったらしい。
このセリフをぜひこの役者さんに言ってほしい。そういう思い入れが強くあったとか。
ないよなわたし。好きな芸能人もいない。シナリオはだめかな。

95 :吾輩は名無しである:2005/11/18(金) 16:04:37
ここまで本の内容と関係ない自分語りもすごいなw







豚美香死ねよ。ブログかノートにでも書いてろ屑

96 :吾輩は名無しである:2005/11/18(金) 16:11:07


97 :吾輩は名無しである:2005/11/18(金) 16:11:36


98 :吾輩は名無しである:2005/11/18(金) 16:12:07


99 :吾輩は名無しである:2005/11/18(金) 16:12:36


100 :吾輩は名無しである:2005/11/18(金) 16:13:36
障害者に
キチガイといっても無駄です

101 :吾輩は名無しである:2005/11/18(金) 16:13:45
ノー

102 :吾輩は名無しである:2005/11/18(金) 16:14:14


103 :吾輩は名無しである:2005/11/18(金) 16:14:38


104 :吾輩は名無しである:2005/11/18(金) 16:15:06
書け 恥は

105 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/11/18(金) 16:56:14
「おくのほそ道―付・曾良旅日記、奥細道菅菰抄」(芭蕉/岩波文庫)

→初心者向けの角川文庫から入り、講談社文庫を経由、到着地は岩波文庫。
原文は6回読んだことになる。飽きないのはなぜか。
読むたびに旅の高揚感がよみがえる。
かつての旅行のひとコマひとコマが切実に思い返される。
行った場所は芭蕉とは無縁の国外であるのにもかかわらずである。

構成が心憎い。
まず日光でさらりと同行の曾良(そら)を紹介。
飯塚で持病のつらさを告白。長旅への不安をもらす。
かと思えば壷の碑で旅の悦びを謳いあげる。
表日本(太平洋側)の名所松島では風光に感嘆、平泉では年月に思いを馳せる。
眼福のあとには艱難と、この次に山越えをもってくる。
羽黒三山。ちょうど旅の真ん中でこの宗教的聖地を訪れる。
宗教的静寂の後は繁栄する酒田へ赴く。裏日本(日本海側)である。
象潟へ。この象潟は松島と左右対称のごとく比較される。光の松島、陰の象潟。
越後路で旅の疲労を訴える。旅も終盤に入ったことが意識される。
一振で遊女との軽いロマンス。金沢で知人の死を知り慟哭する。
山中では曾良と、天竜寺では北枝と別れる。離別の連続である。
次に再会をもってくる。福井で等栽と十年ぶりの再会をはたす。旅の醍醐味である。
クライマックスは敦賀での月見。
打ち上げを忘れないのもさすが。種の浜で豪商と宴会。酒をのむ。
最終段の大垣では一度は別れた曾良とも再会し、また旅に出るところで終わる。

偶然にまかせてあてのない旅をした芭蕉が「おくのほそ道」を書く。
するとなぜか「おくのほそ道」は神が設計したかのような完全な構成美をもつ。
理想的な旅になる。
偶然の連続だった旅が「おくのほそ道」では物語のような必然性を帯びる。
偶然が芭蕉の中で必然にかわったがためである。
そこに旅の魅力がある。旅をする人間の秘密がある。

106 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/11/18(金) 16:57:48
メモ。解説に教えられる。
この「おくのほそ道」におけるリズムの良さは省略からもたらされているとのこと。
省略すると意味こそわかりにくくなるが、テンポが格段にあがる。リズムが生じる。
いままで文章を書く上でわかりやすさを追求してきたが、それだけでは不十分だと知る。

「曾良旅日記」「奥細道菅菰抄」は研究者向け。
研究と鑑賞はまったくの別物である。
一般読者は研究者にことさらへつらう必要はない。
世界中を放浪している旅人と書斎で本に囲まれた研究者。
こと鑑賞となったらどちらが「おくのほそ道」の真髄をより深く味わえるのか、
知れたものではない。

107 :吾輩は名無しである:2005/11/18(金) 17:15:32
臭い

108 :吾輩は名無しである:2005/11/18(金) 17:18:21
人間革命@  池田某

自慢がすばらしい。

109 :吾輩は名無しである:2005/11/18(金) 17:19:08
人間革命Aン 池田某

自慢が続く

110 :吾輩は名無しである:2005/11/18(金) 17:20:08
人間革命B 池田某

自慢ばかり




111 :吾輩は名無しである:2005/11/19(土) 11:02:59
>>106は、小学生の作文じゃない。つい半年前、中学卒業時にラリーが書いたものだ。
自尊心があったり、恋愛できるような知能だと思えるか?
まあラリーは自分だと思いたいなら、別にいいけどな(笑。

むちゃくちゃ笑えるが、しかしこういうラリー擁護者のほとんどは、
間違いなく、犯罪者予備軍。
どうせ一方的な思い込みで「付き合ってる」とか言い触らしたあげく、
女に否定されて、学校へ行けなくなった類いだろ。

112 :吾輩は名無しである:2005/11/20(日) 00:48:36
美香(旧姓美香QNW)は松尾芭蕉をなんか誤解しているな。松尾芭蕉は
別にあてのない旅はしてないよ。松尾芭蕉は伊賀上野の忍者だったわけだ
からさ。「おくのほそ道」は公務がてらの日記さ。一説には仙台伊達藩の
調査が主な目的といわれているね。
でも、当時は幕府御用達忍者の仕事もマンネリ化していたし、忍者という
公務よりかは俳句談義・俳句をつくる方、つまり趣味の方が主流になっち
ゃってたと思うけどね。そうやって伊賀忍者はだらしなくなっていったか
ら薩摩忍者の幕末の大衆扇動作戦に全く歯が立たなかったと忍者研究家が
忍者の歴史の本に書いてあったね。

113 :吾輩は名無しである:2005/11/20(日) 00:51:07
ソースもあるようだね。インターネット辞典「松尾芭蕉」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E8%8A%AD%E8%95%89

114 :吾輩は名無しである:2005/11/20(日) 17:01:18
「宣告」上中下 加賀乙彦 新潮文庫 2003
「こちら側」と「むこう側」ふたつの世界が対峙する拘置所を、
刑の執行を待つ死刑囚と精神科医を中心に描いています。
楠本というインテリのクリスチャンの囚人が主要人物。
楠本の手記を通して彼が犯した犯罪と現在の生活ぶりはわかるのですが、
私がいちばん興味があること――どのような心の動きによって
拘置所でキリスト教を信じるようになったのか――が書かれていないのが不満。
それから、こういう長篇小説にはもっと読者の興味をひっぱっていくような
エンターテイメント的要素が必要ではないかと思った。
作者はドストエフスキーが好きみたいだけれど、
ドストエフスキーの小説には読む人を飽きさせないあざとさがある。
加賀さんはまじめ過ぎです。
1987年に加賀さんは遠藤周作さんを代父にカトリックの洗礼を受けたそうです。

「沈黙」 遠藤周作 新潮文庫 2004
私がロドリゴなら何の躊躇もなくキリスト像を踏みます。
偶像崇拝は禁じられているんだから。
けれど自らの信仰と他人の血(自分の命ではなく)のどちらか
を選べという、究極の選択にはロドリゴ同様悩んでしまう。
信仰というものを宗教に限定せず、個人の持つ信念ととらえれば、
ロドリゴの葛藤はさらに身近なものとなりますね。

115 :意見公告:2005/11/21(月) 00:50:46
美香、紫苑、みか5さい、ムー大陸、2ちゃんねる文学板は自由掲示
板だ。だからいろんな意見、時には他人に対する誹謗中傷があっても
いい。しかし自分の気に入らない意見を削除することは止めろ!
美香、紫苑、みか5さい、ムー大陸、2ちゃんねる文学板は自由掲示
板だ。だからいろんな意見、時には他人に対する誹謗中傷があっても
いい。しかし自分の気に入らない意見を削除することは止めろ!

116 :意見公告:2005/11/21(月) 01:00:46
美香、紫苑、みか5さい、ムー大陸、2ちゃんねる文学板は自由掲示
板だ。だからいろんな意見、時には他人に対する誹謗中傷があっても
いい。しかし自分の気に入らない意見を削除することは止めろ!
美香、紫苑、みか5さい、ムー大陸、2ちゃんねる文学板は自由掲示
板だ。だからいろんな意見、時には他人に対する誹謗中傷があっても
いい。しかし自分の気に入らない意見を削除することは止めろ!




117 :吾輩は名無しである:2005/11/21(月) 01:30:41
え?
この↑のコテハンの人達が文学板の管理してんの?

118 :吾輩は名無しである:2005/11/21(月) 09:33:58
省11

119 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2005/11/23(水) 01:03:12
『めぐり逢い』 後藤明生 集英社文庫 昭和56年 (再読)

120 :吾輩は名無しである:2005/11/24(木) 23:40:31
いい印象を覚えるコテはムー大陸さんと鼎君くらいかも。
というわけでこっそり応援・・!

121 :吾輩は名無しである:2005/11/24(木) 23:45:04
>>120
ムー、めるす、鼎……。
悪印象がない=空気コテだな。

122 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2005/11/24(木) 23:45:19
男は、イイ人と言われるよりも、ワルイ奴と言われたいものなのでR

123 :吾輩は名無しである:2005/11/24(木) 23:47:34
>>122
ウッスイ奴って言われてるんだと思うが

124 :おさむ:2005/11/24(木) 23:51:04
そろそろアラシの秋ですね♪

125 :通りすがりの966:2005/11/25(金) 00:23:13
あたらしくコテの仲間入りをさせてもらうよ。
最近書いたレスは、「近代日本文芸評論家について」の前スレ966
あたりから。

126 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2005/11/25(金) 17:05:54
『「絶対」の探求』 バルザック 水野亮 訳 岩波文庫 1978年改訳版

 19世紀の始め頃のフランドル地方を舞台に、万物の共通元素である「絶対」を求めて、
錬金術めいた化学実験に没頭し、そのために、経済的にも、社会的にも、家族の家長と
しても破滅してゆく貴族を描いた小説である。主人公は、その名もバルタザールという。
 知性の書である。と言っても、バルタザールの探求が「知的」なものであるからでは
ない。むしろ、バルタザールは娘に全財産をつぎ込んで没落してゆく、愚かしくも崇高な
ゴリオ爺さんの同類と言ってよい。ゴリオ爺さんにとっては娘の幸福が「絶対」であった。
その意味で、この「絶対」という言葉は、極めてアイロニカルに使われている。「絶対」は
究極の安定をもたらすどころか、決してたどり着けず、それを求める者に、際限もない
精神と肉体の浪費を強いるものだからだ。そして、この「絶対」の様相は、おそらく19世紀
から現在にいたるまで続く、何ものかを語っているのだ。終着点を持たず、絶えず強さと
圧迫を増大させながら無限に継続されるもの。これは資本主義社会そのものだ、とまで
言い切れば極論かも知れないが、バルタザールとゴリオ爺さんを苦しめるのは、第一に
金銭の問題なのだし、バルタザールの当面の目標は炭素からダイヤモンドを合成することで
あることは心に留めておいていいだろう。明らかに言えることは、屋根裏部屋で、当時でも
既に時代遅れであった錬金術に没頭するこの世捨て人は、しかしバルザックのまぎれもない
同時代人として存在していることである。

127 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2005/11/25(金) 17:06:47
(つづき)
 本書が知的であると書いたのは、本書がこうした時代精神への強靭な批評になっている
からだ。「強靭」と書いたのは、バルザックにおいては、知性がそのまま膂力の発露に
なっているように見えるからである。本書は様々な二項対立で占められている。高貴さと
卑俗さ、男と女、誠実と打算、理想と現実、妻と母親、母親と娘、旧時代と新時代、秩序と
破滅に至る混沌…。これらの対は、一組の人物として体現されることもあれば、一人の
人物の中の相矛盾する要素として描かれることもある。感動的なのは、バルザックがそれら
の対立を距離を置いて眺めているのではなく、正に彼自身がそれらの対立の中で引き裂かれ
そうになるのを、強烈な精神力で耐えているように思えることである。冒頭のフランドルの
旧家の屋敷の丹念な描写を読めば、バルザックがいかにこの地方の旧時代の秩序立った
風俗を愛惜していたのかがよくわかる(私はふとフェルメールの絵を思い出した)。一方、
バルタザールの屋根裏の実験室は、「学者の専心没頭というものが惹き起こす乱脈ぶりが、
いたるところ、整理一方のフランドルふうのしきたりをぶちこわしていた」(240頁)ので
ある。
 私は歴史には暗いので、はっきりとは言えないのだが、多分バルザックの生きた19世紀の
前半は、おそらく新旧の時代の境目だったのではないか。新時代の狂熱を体現するのが
バルタザールなら、旧時代の秩序の体現者は、彼の妻ジョゼフィーヌである。この貞淑で
高貴で従順で…とにかく昔風に言えば妻の鑑とでもいえそうな女性は、あるとき意を決して
夫に抗議する。
 
  …そうですとも、私はほかの女をみんな寄せ集めたよりも、ただひとつの思想のほうを
 ずっと嫉妬しますわ。愛は大きなものです。けれど無限というわけには行きませんものね。
 だのに学問には底の知れない深さがあります。あなただけがひとりでそこに入っていらっ
 しゃるのを、だまって見ているわけにはまいりません。私は、私たち二人のあいだに入って
 くるものは、どんなものでも憎みます。…(112頁)

128 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2005/11/25(金) 17:09:02
(つづき)
 そう、人間の生命は有限だから、愛は無限というわけには行かないのだ。それを身をもって
証するように、ジョゼフィーヌは衰弱して死んでゆく。無限はただ人を喰らい潰し、不毛の
荒野を広げるだけではないか。バルザックは、この有限と無限という相容れない二つの様相を、
腕力にものを言わせて、最後にシンバルのように打ち鳴らす。その結節点がバルタザールの
死の瞬間でしかありえないことはもはや明らかだろう。(余談ですが、トリュフォーの長編
映画第一作「大人はわかってくれない」に、以下の部分が、思いもかけない形で引用されて
います。興味のある方はぜひぜひ)

  息も絶えだえの病人は突然、握りしめたこぶしにからだを支えて起きあがった。ギョッと
 したこどもたちに投げかける視線は、まるで稲妻のように彼らのすべてに突き入った。
 首筋にわずかばかり残っている髪の毛がそよいだ。しわがピクピクふるえた。顔は火の
 ような精気をおび、そこを、ある霊感の息吹が通りすぎて、この顔を崇高なものとした。
 激怒のために引きつる片手を高く差し上げると、われるような声でアルキメデスの有名な
 言葉を叫んだ、――「EUREKA!(わかったぞ!)」思うように動かないからだは、
 重そうな音を立てて寝台に落ちこんだ。彼は恐ろしいうめき声をあげながら死んだ。(348頁)

129 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2005/11/25(金) 17:09:58
(つづき)
 おそらくこの死には、ある小説の、ある特殊な登場人物の死以上の何かがある。我々も
また、バルタザールとは別の様相の元にではあるが、ある「絶対」に捕らわれているのだ。
これを「死」と呼び変えてもよい。つまり。我々も、有限である生を、ただあるがままの
ものとして享受できる時代には生きてはいないのだ。我々は、返す当てのない無限の負債を
抱えているかのように、あるいは決して癒されることのない乾きに突き動かされているかの
ように、踊りながら死に向かってまっしぐらに行進して行く。バルタザールはそれでも個人
として生き、そして死んだ。しかし我々の絶対なるものは、もはや高貴さの影も止めておらず、
ハメルーンの笛吹きよろしくわけもわからずに馬鹿踊りを無理強いするのみなのだ。
 バルザックの小説の登場人物を捉える様々な狂熱と、我々の社会の持つ狂熱。その共通点と
違いを同時に見究めなければならない。それにはバルザックそのひとの凶暴な知性が必要と
される。そしてそのために、もちろんバルザックは読みつづけなられなければならないのである。

(おわり)

130 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2005/11/25(金) 17:57:18

『来るべき世界』 手塚治虫 角川文庫版 平成7年

面白かったです。

131 :みほみほ ◆fXdBq/cRPI :2005/11/25(金) 23:38:53
はじめまして。
「絶対の探究」の感想面白かったです。
小説中の二項対立の指摘は、すごく示唆的でした。

>バルザックがそれらの対立を距離を置いて眺めているのではなく、
正に彼自身がそれらの対立の中で引き裂かれ そうになるのを、
強烈な精神力で耐えているように思える

それゆえ、バルザックの小説は力強い(高貴で、誇り高い)
印象を読者に与えるのかもしれませんね。
久しぶりに読みなおしたくなりました。






132 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2005/11/26(土) 00:15:19
>>131
どうもです。

>久しぶりに読みなおしたくなりました。

こういう感想、ホント嬉しいです。
バルザックはまだまだ読み始めたばかりなので、これから楽しみです。

133 :吾輩は名無しである:2005/11/26(土) 14:24:30
そろそろ美香の私物レスがくるかな

134 :吾輩は名無しである:2005/11/26(土) 20:17:42
はじめまして。
「寝ても覚めても本の虫」児玉清著

 「本とは嫁を質に入れてでも買うものだ」と奥さんに
言った児玉さんってすごいと思いました。

 久々に「立証責任」とか読み返したくなりました。

135 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/12/01(木) 14:21:18
「想い出づくり」(山田太一/大和書房)絶版

→全14回のテレビドラマシナリオ。昭和56年放送。
1年半ほどまえにツタヤでレンタルをして見たことがある。
衝撃を受けた。むかしのテレビドラマはこんなにおもしろかったのか。
現段階でいちばん好きなテレビドラマです。
今回、それをシナリオで再確認。シナリオ勉強の意味合いもある。

独身の女が3人。古手川祐子、田中裕子、森昌子。
それぞれに結婚へのプレッシャーを日々感じている。
しかし、と思う。このままでいいんだろうか。このまま結婚してしまっていいのだろうか。
結婚をすれば人生が決まってしまう。結婚までのわずかなモラトリアム(猶予期間)。
熱いものがほしい。かっと燃えるようなことを体験してみたい。
独身時代の「想い出」がほしいのである。せめて海外旅行でも、と思う。
折しも3人はそろって旅行詐欺の被害にあう。だましたのは柴田恭平。
女3人は力をあわせ柴田恭平の居所を発見する。
詰問に逆ギレした柴田恭平が叫ぶ。
「他になんにもねえのか、手前ら、結婚までに、他になんにもねえのか?
(……) なんにもねえから、旅行にすがってるんだ。せめて海外旅行ぐらいって」
そこからこの物語は始まる。「想い出づくり」――。

打ちのめされる。いったいどんな才能がこういう大傑作を書かせるのか。
想像も及ばない。体験か。技術か。観察力か。想像力か。
こういうのを書きたいと思う。あまりの山の高さに尻込みしながらも。
読みながらおもしろいなと何度も思う。何度も笑う。泣いている。
先に読み進めることができずに、いいな、と幾度もおなじせりふを声に出す。
どうしたらこんないいせりふを書けるんだろう。胸に突き刺さるせりふ。
忘れられないせりふとシーンがいくつもある。
なんの関係のないふとした折にそれらのせりふやシーンが胸をよぎるのである。
悔しいから、テレビドラマの分際で、と思う。
視聴率乞食のテレビのくせにこんなひとを感動させるな、と強がるしかない。

136 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/12/01(木) 15:23:38
訂正)→なんの関係もないふとした折に>>135

137 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/12/01(木) 15:24:39
「書きあぐねている人のための小説入門」(保坂和志/草思社)

→品というものが人間にはあるみたい。
この保坂さんはとにかく上品なわけである。
こともなげにストーリーを否定する。引用。

「ここまで読んで、『それ(ストーリー)が、なぜいけないの?』
『本を読んだり、ドラマを見たりする面白さって、
それ(ストーリー)に尽きるんじゃないの?』と思った人は、
ストーリーがしっかりしているエンターテイメント小説を目指すことを勧めます。
人間には外からどう言われようと、どれだけ自分で努力してみても、
絶対に変えられない“型”みたいなものがあって、
ストーリーにしか反応できない人がいっぱいる。
これはもうどうしようもない」(P136)

辛辣(しんらつ)である。
あっさりとダメだしされてしまった下品なわたし(苦笑)。
保坂さんはストーリーなどだれにでも作れると嘲笑する(え、そうなの?)。
書きたいのは微妙な味わいにあるという。たとえば、寄せては引いていく波。
あの波をぼーっと眺めているときの感覚を文章で表現したいらしい。
さすが上品なひとはちがう。下品なわたしは海をぼんやり眺めることなどない。
夕飯に食べる魚のことを考えてしまう。

ストーリーを否定した保坂さんは風景描写のちからを強調する。
例としてじぶんの小説から引用している。
わずか9行。なのに読めないわたし。字面は追えてもイメージがわかないのだ。
何度、繰り返してもだめだった。
品の上下はこんなにも深い断絶を人間にもたらすものなのかと愕然とする。
保坂さんはじぶんが成長するために小説を書いているという。
「読者は?」などとは恐れ多くて聞けやしない品の良さである。
この本はブックオフ105円コーナーで買った。とことん下品である。

138 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/12/01(木) 15:47:11
「法学入門」(遠藤浩・久保田きぬ子/有斐閣新書)

→法律に興味を持った。法律ってなんなのだろう。
むかし、大学に入りたてのころ、法学部の知人に質問したことがある。
「なんで人が人を裁けるの?」
答えはなかった。意外そうな顔をされたのを覚えている。
その疑問はいまも変わらずにある。
ようやく機が熟したのか、今回法律を勉強するにいたった。

新書サイズでコンパクト。それがこの本のいちばんの魅力。
また欠点ともなる。説明できる分量が少ない。
結果、よくわからなかった。だけど、それでいいのである。
最初からの予定通り。まずはなじみの少ない法学用語にふれるだけでいい。
あとは薄いのを一気に読むことで、全体図をとらえることができたら。
こちらはまったくの門外漢なのだから。
勝負のまえの腹ごしらえのようなものである。

139 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/12/01(木) 16:32:55
「法学入門30講 <新版>」(石川明・編酒井書店)

→なるほどと思ったところをメモ風に書く。
法学を学んだ方には常識以前のことかと。読み飛ばすか、憫笑してください。

「法は道徳の最小限」。法は道徳と常識を基礎に持つ。
ちがいは強制力(効力)の有無。法は強制力を持つのが特徴。
人命の尊重や窃盗の禁止。太古からのルール。これを自然法という。
この自然法から生まれたのが実定法。
言わずもがなの自然法をはっきりと明記したものである。
この実定法は成文法と不文法にわかれる。
成文法はナポレオン法典を起源に持つ。ヨーロッパ大陸に広がった。
不文法は成文法とは異なる、明文化されない法のこと。
不文法には慣習法、判例法がふくまれる。イギリス、アメリカが使用。

140 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/12/01(木) 16:33:38
(つづき)

近代法の発生は、自由と平等をうたったフランス革命にある。
それまでは「朕が国家」の絶対王政。国民は封建制の下での身分社会。
だが近代市民革命により、市民社会と国家(夜警国家)に分離した。
「身分から契約へ」(個人の尊重)。
背景には「見えざる手」(資本主義)への信頼があった。
しかし資本家と労働者の別が貧富の差を増大させる結果に。
「契約から身分へ」(貧困問題)。
国家は国民の自由をある程度規制して、法によって社会的弱者を守る必要が。
以上が近代法の成立から現代法に移行するまでの流れ。

「日本は本来、法なき国家」。
明治時代まで「自由」「権利」に相当する日本語がなかった。
不平等条約改正に向けて、国家主導の(上からの)近代法整備(輸入)。
太平洋戦争無条件降伏による、マッカーサー法案の丸呑み(日本国憲法)。
日本国民はむかしもいまもあまり法を頼りにしないで生活している。

税込み価格3570円。大学の教科書。ブックオフ105円ゲット。
351ページ。よく読めたとじぶんでも思う(笑)。民法、商法はさっぱりわからず。

141 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/12/01(木) 17:30:53
「裁判の秘密」(山口宏・副島隆彦/洋泉社)

→これおもしろい! 新たな分野の本に手を出すとこういう当たりがあるのか。
著者は現役弁護士。日本の裁判の裏側(実情)を赤裸々に語る。
著者は本書で何度も繰り返す。法学の教科書なんてうそっぱち。
あんなものは現場を知らない学者の妄言。信じるだけバカを見ると。
これは法学の裏の教科書ともいえる。建て前と本音が法学にもあるようだ。

主張の大筋をかんたんにまとめると、日本の裁判はいんちき。八百長。
と、こうなる。民事(訴訟)も刑事もまともに機能していないらしい。
まず民事。判決がでるまでがとにかく長い。3、4年はざら。
で、判決が出たところで役に立たないという。
金を貸す。返さない。数年かけて裁判をする。勝訴する。
それでも金を取り返せないのが日本の裁判制度なんだとか。
強制執行逃れがいとも容易にできるためらしい。

刑事訴訟もどっかおかしいと。起訴率の異常な高さ。
これは法廷上の証言並みに検事側の供述調書が重視されるためらしい。
だから、いったん起訴されたらほとんど無罪になることはない。
出来レースではないかと著者は主張する。冤罪もかなりあるのではとも。
国を相手取った行政訴訟はやるだけ無駄だと失笑する。
裁判所はぜったいに行政が不利になる判決はくださない。
「官と官は争わない」。
つまりは三権分立など日本では成立していない。
判決をくだすのは裁判官。
裁判官というのは法律オタクのおかしなやつが多いと内情をすっぱぬく。

142 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/12/01(木) 17:31:56
(つづき)

山本夏彦を愛読する著者の物言いは痛快。引用する。

「通常、民事裁判の被告になる人びとというのは、言ってはなんだか、
社会生活を常識の範囲で行なえない人たちだから裁判になるのである。
あまり声高には言いたくないけれども、やはり言わなくてはならない
ことなので言うが、人権人権というけれども、そんなきれいごとが
通用しない人たちが多くの場合は裁判の相手方になるのである」(P67)

「裁判で、何かが解決したり、損害を回復したり、自分の権利というものを
実現できると信じている人びとが世の中の大半であろう。
しかし、他方に運命というものがある。できないことはできない。
だからその運命を甘受させるのが、
相談を受けた弁護士の本当の仕事なのかもしれない」(P203)

法学教科書とセットで読んでおいてよかったと思う。
どちらかだけでは片手落ちになっていたでしょうから。
文庫にもなっている。宝島文庫。残念ながら絶版。
それにともない単行本のほうで復刊。現在購入可能。
まあ、わたしのようにブックオフ105円コーナーで見つけたら、
読んでみるのも一興かもしれません。
今回、法律関係の本を3冊読んだ。すべてブックオフ105円本。
ふむ。ブックオフはわたしの大学かもしれません。百円大学。

143 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/12/01(木) 19:20:46
「生きる勇気が湧いてくる本」(遠藤周作/祥伝社黄金文庫)
「信じる勇気が湧いてくる本」(遠藤周作/祥伝社黄金文庫)
「愛する勇気が湧いてくる本」(遠藤周作/祥伝社黄金文庫)
「愛と人生をめぐる断想」(遠藤周作/光文社文庫)*再読

→最近、トラブルがつづいている。
夜、お酒を飲みながらこういう本を読む。
4冊とも箴言集(しんげんしゅう=アフォリズム)。
いままで発表されたエッセイから抜粋したもの。
大学生時代に遠藤周作の著作は大半、読んでいる。
大学卒業とともに遠藤周作も卒業した。

相変わらずわかったようなことを言っている。
人生について、女について、男について。
だけど、笑えない。それほど精神的に疲れている。
ウソでもいいからそういうことばにすがりつきたい。
確信をもったことばにだまされたいのである。
生きるということは、何かを信じるということでしょう。
何も信じないというあなたも、信ずるものが世にないということを信じている。
信じるということは、その信じるものにだまされるということだ。
遠藤周作はイエス・キリストにだまされることを選択した。
そして読者をだまそうとした。

それはそんなに悪いことでもないんじゃないかなと思うようになってきた。
どうせ何かにだまされるのが人生ならば。
だまされたいなと思いながらお酒を飲んだ。あいまにページをめくった。

144 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/12/01(木) 19:51:08
「好きになっちゃったインド」
(西牟田靖・福田素子・森永秀史・下川裕治/双葉社)

→古本屋ワゴン100円本。定価が1500円だからほんとうれしい。
もちろん定価だったら買わない。100円だから買う。100円だからたのしい。
インドじゃ100円も払えば立派なチキンカレーが食べられる。
そのインドの本を買うのに1500円はだせません。

モノクロだけど写真がいっぱい載っていたのがよかった。
思い出すな。日本の対極にある国、インド。
きたなくて、公然と差別が存在する、約束を守らない国、インド。
インド小説ってあるのかな。旅行記ではなくて。
わがままな人間がたくさん登場して差別が連鎖する。
そのくせどこかしら宗教的な雰囲気があるという。
主人公は、宿命で人生が決められているのをなかば知りながら(カースト制度)、
なぜか自由を満喫しているかのごとく明るい(インド人はとにかく明るい)。
そんな小説を書きたいけど、書けないだろうな。
いや、わかんないぞ。だけど、身近にあることを書くのが小説だよね?
そうじゃないとリアリティがなくなる。
最近の小説が突出したものにならないゆえんである。うーむ。

145 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2005/12/02(金) 02:50:09
『ロック冒険記』 手塚治虫 角川文庫 平成六年

ひたすら陰惨なお話です。
後年ロックがグレキャラになるのもむべなるかな。

146 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2005/12/02(金) 02:54:43
付記:『ロック冒険記』が描かれたのは1952-54年です。

147 :吾輩は名無しである:2005/12/04(日) 08:44:53
アーサー・ミラー全集II 倉橋健訳 早川書房 1993
「橋からのながめ」
ニューヨークのイタリア移民の話。
親代わりに育ててきた自分の姪に過剰な愛、というか所有欲を
持つ男の悲劇。

「るつぼ」
17世紀のアメリカで実際にあった魔女狩り裁判を元にした作品。
判事を務めるダンフォースという男が印象的。
裁かれる側からすれば彼は融通のきかない杓子定規な人間だけれど、
審理においては厳格さだけでなくフェアで公明正大なところを見せる。
判事が自分の正しさを信じて疑わないところに、悲劇があるのです。
るつぼ crucible には「試練」の意があります。

映画「クルーシブル」(1996米)も観ました。
これはとてもいい。
特にダンフォースと主役を裏切るメアリ役の俳優はすばらしいです。
また日本では劇団民芸が「るつぼ」を何度か上演しているらしい。

ところでみなさんは十戒をすべて言えますか?

148 :吾輩は名無しである:2005/12/04(日) 08:55:57
「権力と栄光」 グレアム・グリーン全集8 斉藤数衛訳 早川書房 1980
メキシコを舞台にカトリック排除政策をとる権力から逃亡する神父の話。
逃げていく間に男は神父としてのアイテム(ラテン語の本・黒衣にローマンカラー・
ミサに必要な携帯祭台・聖杯)を棄てていく。
最後に残った書類(司祭叙任十周年のときのパーティーのスピーチ原稿らしい)
を放り投げたとき、残ったのはブランデーの瓶と罪の結果として生まれた娘だけ。
自らの罪を愛してしまった神父の懺悔とは何か。
この神父は決して立派な男ではない。それだけに極限の状況におかれたときの
彼がより身近に感じられるのです。
エンディングがちょっと甘いかなと思ったけど、これは傑作。

149 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2005/12/06(火) 20:41:59
『セラフィタ』 バルザック 蛯原徳夫 訳 角川文庫 平成元年
(昭和29年の初版の復刻版)

 色々な意味で難物。というか、正直ヤバい。
 舞台はノルウェーの海際の寒村。登場人物は5人だけ。つまり、パリの雑踏の中を多くの
登場人物が交錯する「人間喜劇」シリーズとは真逆を行く小説である。
 主人公はセラフィタ・セラフィトゥスという名の、両性具有(?)の美しく、超人的な
人物である。
 そして、彼/彼女にそれぞれ激しい恋を抱いている若い一組の男女、女の父親の懐疑主義者
の牧師、セラフィタの無口な老下僕。以上が登場人物の全てである。
 物語はある意味単純で、セラフィタがこの男女に、延々と神の実在と神への恭順を説き、
最後には「熾天使(セラフ)」(天使の中でも一番位が高いらしい)となって昇天してゆく
というものである。
 21世紀の東洋の無神論者たる私には、かなり縁遠い話と言わねばならない。文庫本にして
約200ページという分量は決して長いものではないのだが、結局読み通すのに一週間ほど
かかってしまった。数十ページにわたって繰り広げられる複雑で深遠な神学を、旧漢字で、
それも、昭和二十年代の劣悪な印刷をそのまま再現した復刻版で読まされたのが、中々読み
すすめられなかったことの原因の一つである。それは明らかだ。
 でも、これを読んでいるときに常に感じていた何とも言えない焦燥感は、おそらくその
内容から来るものであって、私はこの一週間、数頁、時には数行読んだだけで溜息と共に本を
閉じ、何か満たされない気持ちのまま、焼酎をラッパ飲みしたり、落ち着きなくPCを起動
させては、よからぬページを覗いたり、ムシャクシャまかせに馬鹿なことを書き込んだり、
といったことを繰り返していたのである。

150 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2005/12/06(火) 20:42:49
(つづき)
 唐突だが、私は神の実在は信じられないけども、やはり美の実在は信じているのだ。
その目に、本書の中で折に触れて語られる、フィヨルドに縁取られた北国の早春の風景は、
神々しいくらいに美しい。神々しい、と書いたが、何か、ほとんど麻薬的な美しさなのである。
薬物や極限状況によってハイになった精神が見る世界はかくやという感じである。ところで、
私はこの美を心底から信じられるだろうか。それともこうした「法悦」は脳内物質がひきおこす
まやかしのデンパなのか。前者だとすれば、私の今の生活は全否定されざるを得ないし、後者
だとすれば、この宇宙はあまりにも味気なさ過ぎる。かくて焼酎の瓶に手が伸びて悪酔いが
始まるのである。
 バルザックはやはり怪物なのだ。少し前に『「絶対」の探求』の読了報告で、バルザックは
相容れない二者の間で引き裂かれた存在だと書いたが、本書にもこうした二項対立の
ダイナミズムは顕著である。男と女、肉体と精神、天界と地上、信仰と懐疑、神の単一性と
この世の多様性。。。そして恐るべきは、本書一冊が他の全ての「人間喜劇」シリーズと、
深淵を挟んで対峙しているように思われることである。バルザックはその深淵の底で悠々と
玉突きでもしているのではないか。
 もっとも、私はまだバルザックの巨大な長編群のうち、まだ数冊しか読んでいないので、
これは勇み足かも知れない。他の作品をもっと読んだ後に、本書を再読して見ようと思います。
とにかく疲れた。。。

151 :みか5さいのヨンダです ◆S.I.YMfF96 :2005/12/09(金) 21:12:55
■『死因を辿る―大作曲家たちの精神病理のカルテ』五島雄一郎(講談社+α文庫)1995.12

40人の作曲家について、その死因に限らず、作曲の動機と傾向に結びつく精神病理、
エピソードを、広く浅く、わかりやすく紹介しています。

うんちく本もピンからキリまで。通説、俗説をまことしやかに活字に組み上げた「まが
いもの」や、著者の思い入れに偏った「辛い本」も数ある中、これはヒットです。
「根拠ある」事実と推論を広く浅く編み上げた、薄い内容の本で、一人の作曲家につい
て語るなら、もの足りないくらいなのが、逆に読み手の思考想像力を刺激する。そこで
終わるもよし。続きを調べるのもよし。
知らない人には、「へえ、そうか」と思わせ、上回る知識を持つ読み手を、ニヤリとさ
せる。「通説を鵜呑みにした嘘」を書き立てていないので、読んでいて疲れない。

この著者は、的を射た趣味人。でたらめではないディレッタンティズムが好印象。(と、
みか5さいちゃんは評しました)

ぼくとしては、「読書の邪魔にならない本」なので、楽しいし好きです。

152 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/12/12(月) 14:43:54
「人を動かす」(デール・カーネギー/山口博訳/創元社)*再読

→自己啓発本。文学からもっとも遠いもの。
本書は自己啓発系書籍の古典。「道は開ける」とセットでロングセラー。
ここ10日というもの、毎日「人を動かす」「道は開ける」を読んでいた。
読み返すのは4年ぶりくらい。
赤線が引かれているその上にまた新たな傍線を加えたりしながら必死に読んだ。
毎日、毎日。とても恥ずかしい行為だと思う。
しかしそうでもしなければ乗り越えられないトラブルが身に降りかかった。
ほんとうに困った。悩んだ。この本を再読することにした。
自己啓発本は信仰を持たない現代人のための宗教書である。
だからその感想を書くくらいみじめなことはない。全肯定しかないのだから。

153 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/12/12(月) 14:44:43
(つづき)

引用する。

「友を売得るには、相手の関心を引こうとするよりも、
相手に純粋な関心を寄せることだ。 (……)
人間は他人のことには関心を持たない。
ひたすら自分のことに関心を持っているのだ――朝も、昼も、晩も」(P74)

「人はだれでも他人より何らかの点ですぐれていると思っている。
だから、相手の心を確実に手に入れる方法は、
相手が相手なりの世界で重要な人物であることを率直に認め、
そのことをうまく相手に悟らせることだ」(P144)

「みずからかえりみて、自分に対する強烈な関心と、
自分以外のものに対するいいかげんな関心とを比較し、
つぎにその点に関しては、人間はみな同じであることを考えれば、
あらゆる職業に必要な原則を把握することができる。
すなわち、人を扱う秘訣は、相手の立場に同情し、
それをよく理解することだ」(P230)

学んだことを要約する。
人付き合いの上達のためには、もっともっと人間を嫌いにならねばならぬ。
なまじ人間に期待するからうまくいかなくなるのだ。

154 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/12/12(月) 15:16:34
「道は開ける」(デール・カーネギー/香山晶訳/創元社)*再読

→現実はそんなに甘くはない。
自己啓発本を読んだくらいでうまくいくものではない。
いくら書かれた通りに実践したところでダメなものはいくらだってある。
だから自己啓発本は売れ続ける。
買う。読む。発奮する。忘れる。壁にぶつかる。買う……。
この古典から引用する。

「今日という日は、もう二度とめぐっては来ないことを忘れるな」(P40)

「私が痛感していることは、
私たちが日常生活で得られる心の安らぎや喜びは、
自分の居場所や持ち物や、身分によって左右されるのではなく、
気持ちの持ちよう一つで決まるという点だ」(P175)

「私が今日これから会おうとしているのは、
おしゃべりで、利己的で自己中心的で、恩知らずの人間どもだ。
だが私は別に驚きもせず、困ってもいない。
そんな連中のいない世界など想像できないのだから」(P202)

皮肉屋バーナード・ショーからの引用を好むカーネギーは、
この本の「序」でこう述べている。

「本書にはことさら目新しいことは書いてないけれども、
ふつうあまり実践されていないことが多く出てくるだろう。
(……) 私たちの欠点は無知ではなく、無為なのである」

毎日、赤線を引いたところを読み直している。
実践している。まだトラブルが続いているからである。
毎日、自己啓発書を読む。
これ以上にないほど恥ずかしい告白だと思う。赤面する。

155 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/12/12(月) 16:07:21
[アジアン・ジャパニーズ2」(小林紀晴/新潮文庫)

→旅行エッセイの一種。著者はベトナムとフランスを旅する。
そして両国に定住している同世代の若者たちへインタビュー。
なぜ日本からわざわざ海外へでたのか。
「何者かになろうとしている若者」へ向ける著者の視線は温かい。
それは著者自身の葛藤にダイレクトにつながっているからである。
世界各地で夢を追っている若者たちのことを思う。
ふつうの日本人の生き方を拒否した彼らの何人が成功を手にするのだろう。
刺激を受ける。負けてはいられないぞと思う。

156 :◆Nu1EZU2IqA :2005/12/16(金) 02:25:32
何ここ、美香しかいないじゃん

157 :◆Nu1EZU2IqA :2005/12/16(金) 02:28:59
美香という人は速読自慢がしたいようですね。
内容が伴ってないし、読み取りがあまい。

158 :吾輩は名無しである:2005/12/16(金) 02:31:24
社会に出て人と話す日常がなくちゃ、読書なんてなんの意味もないのに。

159 :吾輩は名無しである:2005/12/16(金) 02:31:57
>>156-157
AAはどうしたの?ニヤニヤ

160 :◆Nu1EZU2IqA :2005/12/16(金) 02:33:13
                                            〜@   〜@   〜@
                __( "''''''::::.              〜@   〜@   〜@   〜@
     --;;;; ______,,,,,,---'''''''"""" ヽ   ゛゛:ヽ.      〜@   〜@   〜@   〜@   〜@
    ●::::::::""""  ・       . \::.   丿 〜@   〜@   〜@   〜@   〜@   〜@
     :::::::         ..........::::::::::::彡''ヘ::::....ノ       〜@   〜@   〜@   〜@   〜@
          ::::::::::;;;;;,,---""" ̄   ^``             〜@   〜@   〜@   〜@
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/::::::::     :      ヽ                                 〜@   〜@
|:::::      ::      ヘ                                     〜@
ヽ::::::     :::..     ノ            ドク ドク ピュッ ピュッ  ドヴァ
 \:::::::  /\:::;;;;;;__ ノ



161 :吾輩は名無しである:2005/12/16(金) 02:36:48
へー、一回だけ?ww

162 :吾輩は名無しである:2005/12/16(金) 02:41:28
やっぱりズンかムーじゃないか。

163 :吾輩は名無しである:2005/12/16(金) 02:43:32


164 :吾輩は名無しである:2005/12/16(金) 02:43:56


165 :吾輩は名無しである:2005/12/16(金) 02:44:21


166 :吾輩は名無しである:2005/12/16(金) 21:11:18
「ブライトン・ロック」 グレアム・ギリーン全集6 丸谷才一訳 早川書房 1982
人を殺すことは何とも思わないギャングでありながら、
自分が告解をせずに死ぬことには怯えるカトリックの少年。
男と奔放に遊びながらも、不正には断固立ち向かうその日ぐらしの女。
イギリスの保養地を背景にした善と悪のモザイクです。
ブライトン・ロックとはブライトンで売られている棒状の飴のこと。
タイトルは甘くても中身はビターな味わい。

「塩狩峠」 三浦綾子 新潮文庫 2005
もともとは「ヤソ嫌い」であった主人公が、徐々にキリストの教えに
惹かれていくさまが、わざとらしくなく描かれています。
彼は処女マリアからイエスが生まれたという聖書の箇所を読んで
ばかばかしいと感じる一方、「人もし汝の右の頬を打たば左をも向けよ」という
ことばには深い感銘を受ける。 宗教の神秘性より倫理性を重んじているのです。
この小説の欠点は主人公以外の登場人物の描写が単純でリアリティがないこと。

167 :吾輩は名無しである:2005/12/16(金) 21:15:14
>>166
グレアム・ギリーン→グレアム・グリーン

168 :吾輩は名無しである:2005/12/18(日) 13:02:55
そっか。美香にムカついたらここを荒らせばいいんだ。なるほどね。

169 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/12/20(火) 14:30:37
「ひろさちやが聞く ヒンドゥー教の聖典」(ひろさちや・服部正明/すずき出版)*再読

→ヒンドゥー教。
聞きなれぬ宗教だと思う。わかる範囲で簡潔に説明したい。
ヒンドゥー教はインドで発祥。ネパール、南アジアに広がった。
最大の特徴は、キリスト教、仏教、イスラム教などと異なり開祖がいないこと。
開祖がいないところにどうして神という観念が生じるのか。
たとえば暴風雨。古代の人びとは大自然の暴威を神と名づけるしかなかった。
同時に暴風雨によってもたらされる雨は農作物の豊穣にも寄与することを知る。
のちにこの神はヒンドゥー教でシヴァ神と呼ばれることになる。
破壊(死)と創造(生殖)をつかさどる神である。
余談だが、インドでは神が生きている。仏陀やキリストのように死んではいない。
町中いたるところでシヴァ神のポスターが売られている。
アイドルのポスターとともに。
このようなアイドル神が、ヒンドゥー教にはシヴァ神以外にもたくさんいる。
有名なのはこのシヴァ神と双璧をなすヴィシュヌ神。
両神の妻も崇拝の対象である。
神々の名前を知ればヒンドゥー教がわかるかといえばそうではない。

170 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/12/20(火) 14:31:59
(つづき)

「ヒンドゥー教とは宗教だけではなく、文化や生活の習慣、社会制度など
あらゆるものが一体となった複合体のことである」(P124)

ヒンドゥー教の家に生まれるとする。
その時点で両親の身分を引き継いで一生を生きていくことを余儀なくされる。
ヴァルナ(四姓)である。このほかにもジャーティ(生まれ)がある。
ジャーティはインドに3000以上ある職業グループのこと。
子は親の職を継がなければならない。結婚も制限される。
幼いときに結婚相手を決められてしまう幼児婚もめずらしいものではない。
この我々には理不尽に見えるシステムをなぜインド人は手放さないのか。
インドで3000年以上の歴史をもつ輪廻思想のためである。
人間は一回死んだからといって終わりではない。幾度も生死を繰り返す。
そのときに肝心なのが業(カルマ)。業とは行いのこと。
善業を積めば来世で報われる。
悪業を繰り返せば来世でその報いを受けなければならない。
輪廻思想である。
恵まれない環境に生まれたらばこれも前世の報いとすぱっとあきらめる。

では、人間にできることは何か。
来世に向けて何をすべきとヒンドゥー教は教えるのか。
ダルマ(天分)、アルタ(実利)、カーマ(性愛)の3つを順守せよという。
ダルマ。天与の身分を逸脱することなかれという教えである。
アルタ。商売に励め。金をもうけよ。それが社会貢献になる。
カーマ。セックスに励め。子孫繁栄こそ人間の務めである。
ダルマ、アルタ、カーマに従うことが来世の幸福を約束する。

171 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/12/20(火) 14:34:40
(つづき)

ならインドの聖地に行くとごろごろいるサドゥー(修行者)。
あれはなんなのか。アルタ、カーマを果たしているようには見えない。
サドゥーの存在はアーシュラマ(四住期)とも関係しているのだが、
ここでは詳述を避ける。サドゥーの目的だけ説明する。
ヒンドゥー教徒は輪廻転生に思いをめぐらしている。
しかし、と考えるものもいる。どの道、生まれることは苦であると。
輪廻思想の輪から抜け出たいと願うこと。これが解脱である。
サドゥーは輪廻からの解脱を目指し修行する。
梵我一如(ぼんがいちにょ)を悟ることで解脱するといわれている。

ヒンドゥー教。民衆にひたすら我慢を強いる窮屈な宗教である。
それが祭りで爆発する。ヒンドゥー教は祭りに真髄があるのかもしれない。
空腹時の食事や疲労時の睡眠を思い返すとよい。
理不尽なものへの忍耐を続けた精神が一気に開放されるのである。
祭りの際は、カースト(身分)の規定もゆるめられる。
我々日本人には思いも及ばぬ陶酔感、開放感があるのではなかろうか。

メモ。ひろさちやさんがいいことを言っていた。

「人間は、すべてを神に任せて、できる範囲で努力していく、
そうした生き方を教えるのが宗教だと、わたしは思っています」(P182)

172 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/12/20(火) 15:11:20
「インド」(上野照夫/保育社カラーブックス26)絶版

→昭和38年発行。著者は昭和33年の「インド仏跡調査隊」に加わった。
そのときの写真とルポ。海外に行っただけで本が出せる時代があったんです。

上野照夫はインド美術が専門の学者さん。
彫刻の見方がたいへん勉強になった。
わたしもインド旅行中、何度も博物館に足を運んだ。
おかしなものだと思いながら。
日本では博物館、美術館の類はここ10年行っていないというのに。
だから彫刻・絵画の見方がわからないのも当然。
インドの妖しげな美術品のまえで当惑するだけだった。
あるいはアリバイ作りのように熟視するか。
今回、プロはこう見るものなのかと感服した。引用。

「男性中心の仏教世界に対して、ヒンドゥー教の世界は女性的な色気が多い。
その上さらに、男女間の愛欲が渦を巻いている。
仏教窟院が本来、禅定の場であるとするならば、
ヒンドゥー教窟院は、人々が歌い踊り、自然の生にひたることによって、
神々とその喜びを共にする場であるといえる」(P145)

そうそう! と手を打ちたくなる。
わたしも感じたことをうまく言語化している。

173 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/12/20(火) 16:20:59
「ブッダの人と思想 (上)(下)」(中村元/NHK出版)

→1995年度「NHKこころの時代」のテキスト。
NHKブックスから同名タイトルの本が中村元・田辺祥二共著で出版されている。
調べてみるとテレビ番組で中村元が語った内容を、
田辺祥二がまとめたのがNHKブックス版になるらしい。

哲学嫌いのわたしには「毒矢のたとえ」が印象的(「マッジマ・ニカーヤ」)。
ある人が毒矢に射られて死に瀕している。
この場合、重要なのは毒矢を放った人間の身分ではない。
王族が射た矢か、射たのは庶民か、奴隷の矢か、など考えるのは無用である。
それより一刻も早く毒矢を抜き治療することが重要なのだから。
哲学的な世界認識論を問われても、ブッダは一切答えなかったという。
その理由としてこの「毒矢のたとえ」をあげたゴータマ・ブッダ――。
仏教のスタート地点は「苦」にあることを改めて思い返す。

174 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/12/20(火) 16:22:22
(つづき)

原始仏教(ブッダ)がいっていることはそう難しくはないのではないか。
人間というのはどういう存在か。
欲望を持ち、そしていつかは死ぬべき存在である。
だから苦が生まれる。欲望がかなえられないのは苦である。
愛する人が死ぬのは苦である。じぶんがいつか死んでしまうのも苦である。
この苦をどうするかが仏教の課題なのだ。
無常をブッダは語る。常なるものはない。すべては変わりゆく。
あるように見えるものもたまたまの因縁にすぎない。
因が縁に依って現われているだけである。縁がなくなれば消えうせる。
そもそも人間だって、
両親の出会いというたまさかの因縁で生まれたにすぎないではないか。
縁がなくなればその人間は死ぬ。なんのふしぎがあろうか。
すべては無常である。空である。因縁は空である。
だから煩悩を捨てなさいとブッダはいう。
そのためには実践が第一と、ここで中道、八正道を説く。

別の言い方をする。
人間には苦がつきまとう。苦があるならその苦には原因がある。
原因があるなら苦を滅す方法がある。
方法があるなら涅槃(ねはん=苦を滅した境地)がある。
その苦を滅するための方法が八正道である。
かくして八つの正しい行ないをブッダは推奨する。
難しいのはブッダの教えではない。教えを実践することが難しいのである。

先日、自己啓発本を熟読した(恥ずかしい)。
その方面では古典の「道は開ける」「人を動かす」です。
今回、気づいたことがある。
テキストに引用されている原始仏典と自己啓発本の内容がそっくり!
これはいったいどういうことなのでしょう。

175 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/12/20(火) 16:44:44
「図解雑学 仏教」(広沢隆之/ナツメ社)*再読

→何度でもいう。図解雑学シリーズはよろしい。
なにより復習がしやすいのがいい。
見開き左ページが文章、右ページが絵と図。
このたびは右ページだけぱらぱら読んだ。
これでひと通り仏教知識がおさらいできるのだから便利この上ない。
わからないところだけ本文を読めばいいのだから楽ちん。

思う。やっぱ日本の仏教ってめちゃくちゃ。
日本仏教は、仏教を名乗ってはいけないのではないでしょうか。
そもそも百済からの仏教公伝がおかしい。
護国のために輸入された仏教ってなんですか(笑)。
ブッダは国のことなんて一切論じていないはずなんですけれども。
密教で現世利益とか、笑っちゃう。

インドで生まれた仏教は中国でそうとう痛めつけられて、
瀕死の重体が朝鮮経由で日本に届けられ、最終的にとどめを刺された。
そんなところなのでしょう。
日本仏教を中傷しているわけではありません。
ただブッダが説いたものとは別物ではないかと。
宗教的な機能についてはこれから勉強するのでまだわかりません。
たぶん日本人にはインド産のものより数倍も効くのだと思います。

176 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/12/20(火) 17:13:58
「おくのほそ道」(芭蕉/岩波文庫)*再読

→1時間強で音読する。なんとも気分がよい。
旅について思う。
ほんとうの旅が始まるのは、その旅が終わってからではないか。
だれしも旅の途中は無我夢中である。
じぶんが旅の全体図の中でどこらへんにいるか見当もつかない。
終わってはじめて全体ができる。
あそこが旅のはじまりだったのだとわかるようになる。
旅のクライマックスもわかるだろう。
人間もそう。生きている人間と人間がそううまくいくわけがない。
けれども、旅を振り返りもう会えないのだと思うとき、懐かしさがこみあげる。
過去の人間になっているからである。

旅は人生そのものだという。
しかし人生を終えたとき回顧する己がいるのかはだれも知らない。

177 :吾輩は名無しである:2005/12/21(水) 00:06:37
おさむ召喚age

178 :耕介 ◆Wjz1zGP/mU :2005/12/21(水) 00:18:18
美香さんの「ブッダの人と思想 (上)(下)」(中村元/NHK出版)の感想文を読み、心の底から湧き起こる感動さえおぼえました。
こんなことが書けるあなたにめぐり合えたこと、これもまた一つの因縁ですね。ありがとう。


179 :おさむ:2005/12/21(水) 00:27:24
世界のチンポコ マーチン・ドリスラー

三十秒で音読する。なんとも気分が良い。
チンポコについて思う。
ほんとのセンズリが始まるmのは、女体に飽きてからではないか。
誰しもセックスの途中は無我夢中である。
相手があとどれくらいでイクのか見当もつかない。
終わって初めて全体が出来る。
あそこがフニッシュのしどころだったのだとわかる。
エロビデオのクライマックスもわかるだろう。
人間もそう。生きている人間でそううまいコトいくわけが無い。
けれども、セックスを振り返り、もうセックスできないのだと思うとき懐かしさがこみ上げる。
彼女とはもう別れたからである。

セックスは人生そのものだという。
しかしオナニーを終えたとき虚無する己がいるのは誰にも止められない。

180 :吾輩は名無しである:2005/12/21(水) 00:27:51
>>178
色々なコテとトリップ使ってよくやるね、お前らもw

181 :おさむの液 ◆wYUN/rh3Uo :2005/12/21(水) 00:42:04
「豚のうんこと思想 (上)(下)」(カウパー教授/放出版)

→1995年度「NKH子供の作り方」のテキスト。
NKHブックスから同名タイトルの本がカウパー教授・Jon万子郎共著で出版されている。
調べてみるとテレビ番組でカウパー教授が語った内容を、
田部太郎がまとめたのがNKHブックス版になるらしい。

セックス嫌いのわたしには「毒液のたとえ」が印象的(「チン・ポークーサイ」)。
ある人が射精に射られて妊娠する。
この場合、重要なのは射精を放った人間の身分ではない。
王族が射たお玉じゃくしか、射たのは庶民か、奴隷のお玉か、など考えるのは無用である。
それより一刻も早く精液を抜き治療することが重要なのだから。
哲学的な世界認識論を問われても、カウパーは一切答えなかったという。
その理由としてこの「液のたとえ」をあげたカウパー教授――。
受精のスタート地点は「粘液」にあることを改めて思い返す。

182 :おさむの液 ◆wYUN/rh3Uo :2005/12/21(水) 00:52:53
(つづき)

カウパー教授がいっていることはそう難しくはないのではないか。
ちんぽというのはどういう存在か。
欲望を持ち、そしていつかは腐れ落ちる存在である。
だから苦が生まれる。欲望がかなえられないのは苦である。
愛する人が他の男に妊娠させられるのは苦である。じぶんの子供が残せないのも苦である。
この苦をどうするかがカウパー教授の課題なのだ。
無精子をカウパー教授は語る。精子なるものはない。すべては無精子で結構である。
あるように見えるものもたまたまの因縁にすぎない。
子供はコウノトリが運んで現われているだけである。子宮がなくなれば消えうせる。
そもそもクリトリスだって、
胎内でできかけたちんぽの出来損ないではないか。
ちんぽはクリトリスの畸形に過ぎない。なんのふしぎがあろうか。
すべては無精子である。空である。因縁は空である。
だから煩悩を捨てなさいとカウパー教授はいう。
そのためには実践が第一と、ここで中道、八正道を説く。

別の言い方をする。
人間には苦がつきまとう。苦があるならその苦には原因がある。
原因があるなら苦を滅す方法がある。
方法があるなら殺精剤(パイプカット=苦を滅した境地)がある。
その苦を滅するための方法が八正道である。
かくして八つの正しい行ないをカウパー教授は推奨する。
難しいのはカウパー教授の教えではない。教えを実践することが難しいのである。

先日、ちんぽ切断手術の現場を見学した(恥ずかしい)。
その方面では古典の「去勢は自力でできる」「ちんぽは人を惑わす」です。
今回、気づいたことがある。
テキストに引用されているカウパー教授の説と去勢推奨本の内容がそっくり!
これはいったいどういうことなのでしょう。


183 :おさむ:2005/12/21(水) 01:09:48
ムー大陸かく語りき (文バー)

四〜五年前にさんざセックスしたでしょうがw
もういいかなと。
あと本番ナシだっていったのに あ ん な こ と してくれちゃったあとじゃ、
マトモにサービスしろって方がムリでしょ。
ただ、いくらなんでもレイプ魔と一緒にしたのは言い過ぎだったと
反省してます。
俺にはスカトロプレイはさっぱり面白くないけど、
とにかくウンコを食べさせようと全力で頑張ってるのはわかる。
単に自分の手前勝手なウンコを垂れ流してるだけのレイプ魔とは雲泥の差です。
美香もそういうのは分かるから、あ ん な 仕 打 ち をされた後でも
スカトロを忘れられないのだと思う。
まあ俺も、口で言うほどスカトロプレイに興味が無いわけじゃないです。
ただ、互いにほとんど共通の相手をもたないってだけで。
がんばってくらはい。
一応アナルプラグは通しているのです。


184 :吾輩は名無しである:2005/12/21(水) 01:28:24
>すべては無常である。空である。因縁は空である。
 
オウム真理教みたいな響きですね。

人間は死ぬ 必ず死ぬ 絶対死ぬ・・・
くさっ

185 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2005/12/22(木) 00:40:16
『蒲団・一兵卒』 田山花袋 岩波文庫 1972年改版

 『蒲団』。頑張っている小説である。日本人的に頑張っている。この頑張っている
感じは、ちょっと前に読んだ藤村の『破戒』にも通じているように思う。
 この二つの小説は、言わずと知れた日本の自然主義文学の嚆矢にして代表作である。
今、えらそうに「言わずと知れた」などと書いたが、私はこの年まで『蒲団』も『破戒』
も読んだことがなかった。「自然主義」なるものがいかなるものかをおぼろげながら
知ったのもごく最近である。中村光夫の著作をなんとはなしに読み始めて、なるほど
日本文学史上そんなに重要な作品なのか、どれ読んでみようと手にとったのが『破戒』と
『蒲団』だという次第。いわば「お勉強」のための読書である。普段はこういう読書は
しない主義である。だから、読み始めた最初から、何となく居心地が悪い。そもそも
中村光夫は『蒲団』に対して、かなり批判的な立場を取っているのでなおさらである。
 話は変わるが、私は全くのスポーツ音痴である。自分でもやらないし、テレビでも
観ない。特に野球など何が面白いのかさっぱりわからない。たまたまテレビをつけて
野球の中継をやってたりすると、ちょっとの間ボーっと眺めた後にチャンネルを変えて
しまう。すぐ変えるのではなく、ちょっと間があるあたりに、むしろ自分の野球への
無関心さが現れているように思うのだが、その見るともなく見ている刹那の時間にいつも
感じるのは、選手の動きがまるでかっこよく見えないことである。こんなことを書くと
野球ファンには顰蹙を買いそうだが、何と言うのか、操り人形のようにぎくしゃくして
見えるのである。重心が自分の体の中にはなく、どこか外にあって、その外部の重心に
むりやり引き摺られているような感じだ。ちなみにこの印象は野球だけではなく、
サッカーだろうが陸上だろうが、日本人選手の動き全般がそんなふうに見えてしまう。
何か無理して型にはまって頑張ってる感じなのである。

186 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2005/12/22(木) 00:41:41
(つづき)
 ところが、これもたまたまテレビをつけたときにチラッと見たメジャーリーガーたちの
動きの印象はガラリとちがう。素人感想だが、フォームは日本人の選手に比べていくぶん
いい加減な気すらするけれども、確かに「自分で動いている」ように見える。ちゃんと
身体が、その動きの主人になっているのである。
 こんな関係のないことを長々と書いたのは、『蒲団』を読んでいるときに感じた
窮屈な感じが、まさに夏の甲子園のイガグリ坊主たちの、バネ仕掛けのように律儀な
スライディングを連想させたからである。
 「自然主義」だと言う。「此の一篇は肉の人、赤裸々の人間の大胆な懺悔録である」
(島村抱月。この言葉は、『蒲団』擁護論として有名な文句らしい)と言う。たしかに
そこには、妻子ある中年作家の、若い女弟子への人目はばかる煩悶がこれでもかと
ばかりに暴露されている。しかし不思議なことに、その告白を強いる力そのものには、
いささかの「自然」も「肉」も感じられないのだ。告白が、内的な圧力に耐えかねて
抑えきれず、自ずから迸り出て歌となっているのではなく、不自然な理知の力が、
こわばった自白を強いているようにしか見えない。
 その不自然な力を一言で言えば、それは花袋そのひとの「文学的野心」ということに
なるのかも知れない。で、この時代は、どうやら「文学的野心」=「文壇的野心」と
いってよいようなのである。
 ちょっと長くなるが、ここに花袋自身の言葉を引いてみる。花袋は、日露戦争直後の
社会の活気が文壇にも及んで、藤村の『破戒』や国木田の『独歩集』が世の喝采を呼んだ
ことを述べた後、こう続ける。

187 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2005/12/22(木) 00:42:47
(つづき)

 …『ようやくわれわれの時代になって来そうだぞ。』こう国木田君は笑いながら言った。
  私は一人取り残されたような気がした。戦争には行って来たが、作としてはまだ何も
 していない。小諸から出て来て、大久保の郊外で、トタン屋根の熱い下で、袒(はだぬぎ)
 で島崎君が努力した形などを見て知っているので、ことに堪らない。何か書かなくちゃ
 ならない。こう思って絶えず路を歩いていても、何も書けない。私は半ば失望し、半ば
 焦燥した。
  ところへ『新小説』から頼みに来た。
  『書いて見ましょう。』
  私は息込んで言った。
  私は今度こそ全力をあげなければならないと思った。社へ往復の途中、新たに開けた
 郊外の泥濘(どろ)深い路を、長靴か何かで、いかに深く製作のことについて頭を悩ました
 であろう。あれでもないこれでもない。こういうふうに考えて打ち消し、打ち消しては
 考えた。(『東京の三十年』 文庫の解説からの孫引き)

 要するに、花袋を悩ましていたのは、「人生の問題」ではなく、もっぱら「文学の問題」
だったのだ。
 だとすれば、中村光夫が作者の田山花袋と主人公の竹中時雄を同一視した上で、「主人公は
作品と同じ幅に拡がってしまひ、しかも作者と主人公はたえず同一視されるため、作品全体が
結局作者の『主観的感慨』の吐露に終わってしまふ」と述べ、この作品がきっかけとなって
文壇の主流を占めるに至った「私小説」全体を批判しているのは、ある意味で、自ら「文学=
文壇」に捕らわれているとは言えないか。

188 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2005/12/22(木) 00:44:50
(つづき)

 なぜなら、作中の作家である竹中時雄は、決して『蒲団』を書いたりはしないだろうからだ。
 本質的な問題は、花袋をはじめとする明治の文人達をこうも駆り立てた「文学」とは一体
何だったのかということだと思う。
 上の引用でもちょっと触れられていたが、島崎藤村が『破戒』を執筆したときの悲壮な
ありさまは、感動を呼ぶというよりは、ちょっと人を鼻白ませる体のものである。彼は、教師を
辞めて東京に出てきて、奥さんは栄養失調で夜盲症になるわ、子供はバタバタ死んで行くわ
という極限状況を背水の陣として、処女長編を書き上げるのだ。花袋は花袋で、自分の最も
プライベートな内的生活を「文学」にささげてしまう。これはもはや『アストロ球団』の
世界ではないか。
 おそらく、それが明治という時代だったのかも知れない。必死で白球を追う高校球児たちの
祖祖父たちも、必死で西洋を追い、必死で文学を追っていたのだろう。ムリしてるのだ。みんな、
おつかれさま。
 で、今読んでいる後藤明生の『小説―いかに読み、いかに書くか』で、そのムリさかげんの
一端が明らかにされている。ロシア文学においては、近代ロシア文学が産声を上げたのは、
首都ペテルブルグが建設されてから百二十年後だそうだ。つまり、それを明治元年とすると、
プーシキンの『オネーギン』が書かれるのは、なんと1988年まで待たねばならないことに
なる。

189 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2005/12/22(木) 00:46:19
(つづき)

 後藤はここで、明治19年に発表された二葉亭の『浮雲』がいかに先駆的な仕事であったかと
いうことを強調する。ちなみに『破戒』と『蒲団』が発表されるのはそれぞれ明治39年と
40年である。二葉亭も明治人らしく必死で頑張った。しかしその頑張り方は、彼の後輩とは
全く違う方向でなされた。つまり、彼はまず人生や世界と格闘して頑張ったのであって、文学は
目的ではなく、その手段だったのだ。彼の試みが全く孤立したまま挫折し、その20年後の
『文学至上主義者』たちが近代文学の直接の源流となったことは、ある意味で非常に日本的だと
思う。『蒲団』の頑張りは、『浮雲』のそれよりもわかりやすく、追随しやすいのだ。かくして
イガグリ坊主どものご先祖様たちは、文壇という閉ざされた世界の中で、必死で白球ならぬ
文学を競って追いかけることになる。
 そして私はそういう日本が嫌いである。これは批判ではない。単に嫌いなのだ。
 だから『蒲団』も『破戒』も嫌いである。高校野球も嫌いである。それらは皆、不自然で
神経質で、心の底からの笑いがない。

190 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2005/12/22(木) 01:27:06
付記:

『一兵卒』は、こうした明治という狂騒する巨大な歯車にひき潰される無名人を描いて
ちょっと面白いです。個人的には『蒲団』よりは上だと思う。

長文失礼しました。

191 :吾輩は名無しである:2005/12/22(木) 01:38:54
文章をまとめる能力ってもんがないのかコイツは

192 :吾輩は名無しである:2005/12/22(木) 04:52:58
美香は丸裸にして、デビューさせるしかないようだ。

193 :吾輩は名無しである:2005/12/23(金) 18:08:42
こほん♪


美香先生、私はどうしたらいいんでしょう?

194 :吾輩は名無しである:2005/12/23(金) 18:16:25
今度こんなフザケタ真似したら、それなりにいろいろやっちゃうよ。

ちなみにここをコピペで荒らしてたのは私じゃない。

私がやるならあんなものじゃすまないからね。

以上、本日の警告でした♪

195 :吾輩は名無しである:2005/12/23(金) 21:36:21
こほん♪

196 :吾輩は名無しである:2005/12/23(金) 21:39:19
たたかいますか?

197 :吾輩は名無しである:2005/12/23(金) 22:02:50
め(ry が喫茶室に来ています。

日本語がわからないバカ?
わたしもこちらに読了報告を書こうかと。

198 :大介 ◆m0yPyqc5MQ :2005/12/24(土) 00:11:51
ケース・スタディ・ハウス―プロトタイプ住宅の試み 住まい学大系
岸 和郎, 植田 実
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4795221316/qid=1135349726/sr=1-2/ref=sr_1_10_2/249-1697392-0533159


 現代建設の至上命令の1つに「工業化」の主題が挙げられる事はモダニズムを経験した建築家なら無論であろう。
ケース・スタディ・ハウスは、雑誌『アート&アーキテクチャー』誌[廃刊]に依って、
アメリカの高度成長期にモダンハウスの如何を伝達せしめようとした芸術的格闘の軌跡である。
 専ら後世の呼ぶミーシアン・スタイルに近接した「鉄とガラス」の建築を通して、
一般化した住宅形式によって大衆に新しい時代のライフスタイルを啓蒙しようとしたこの活動の意義は今日でも尚、
甚大である、と私は思う。何故なら、
ここで試みられているのは『case(場合)』に依存するという建築の使命を最も明快な形で解こうとした
懸命の先人の努力の跡が鑑みれるからだ。

 凡そ全ての建築作品は現実世界に顕在化した時、その固有の立地位置に「依存する」。
時空間の内部にしかあり得ない空間芸術の本質を掘り下げた諸計画の意味を正確に読み取ることなしに、
未来のモダニズムを時代の表現へと浄化する事は適わないのに違いないではないか。

 あまりにラディカル過ぎた「ケース・スタディ・ハウスという試み」は
必ずしも成功に到達しなかったかも知れない。しかしそこで行われた実験は
工業化の果てに人間の為の新しい環境を構築せんたる今日の建築家達に強い開拓者精神を教える。
 私はこれらの極めて洗練された名作にも増して、イームズ自邸や#22に良く観察され得る
技術としての芸術の場合に即した展開の意志に、非常に本質的な感銘を受けた次第だ。

199 :吾輩は名無しである:2005/12/24(土) 00:22:13
40点

200 :大介 ◆m0yPyqc5MQ :2005/12/24(土) 00:29:21
100億稼ぐ仕事術 SB文庫
堀江 貴文 (著)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4797330848/ref=pd_sxp_elt_l1/249-1697392-0533159


 ご存知ホリエモンさんの半生記に、啓発本とハウツー本を+したみたいな内容。

 近頃ホリエモンが好きだ。彼は仕事に対して極めてクールで、人生の本旨に熱い。
そんな生き方は戦後の年功序列価値体系の中で蠢いてきた日本人の末先端でつよく輝いて見える。
もちろんぼく達は「パワーエリート」による民主主義の形骸化を知らないわけではない。
ただ、彼は一定のパラダイムに新しいスタイルを可能性として提出した「優等生」だと思うのだ。

 プロローグには物心ついてからの無頼な生活。
進学校での軽い挫折から、短期決戦で臨んだ大学入試の成功体験。
モラトリアムの堕落を目の当たりにして失望した東大時代のインターネット産業への目覚めが記される。
 その後は、具体的にどういう手段でIT企業を運営しているか、手段方法とテクニックが列挙してある。
内混ぜて彼の「仕事哲学」が語られる。

 有名な『僕は8時間寝てます』発言や、
『課題の箱が空になって、やるべきことが無くなる快感を味わえ』という実用的信念も含まれている。

201 :大介 ◆m0yPyqc5MQ :2005/12/24(土) 00:57:07
大学教授―そのあまりに日本的な
桜井 邦朋 (著)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4805203927/ref=pd_ecc_rvi_4/249-1697392-0533159


 大学組織はプラトンのアカデメイアに始まる、と私の今日の知識は語る。
やがて時代は流れ、現代日本に『大学[中国古典、四書の1つから援用]』が出来る。

 大学全入時代が叫ばれて久しい。
日本人の若者は兵役に代わって皆が、「モラトリアムの遊園地」で四年間を遊ぶ権利を得るだろう。
 しかしあなたはここで問うかも知れない。
『果たして大学組織とは何ぞや』
と。

 この本は日本の大学に残存する前近代体制を暴く。
別に研究成果も挙げないままで教育者の名を欲しいままに悠々と暮らす「先生」が、
我々の目の前に鮮やかに描かれる。
併せて『切磋琢磨するアメリカの科学者達』という本を読んだのだが、日本が古代ギリシャから離れて
どれ程の異郷か、嫌というだけ思い知らされる。
 科挙の伝統を封建主義的体制構築の奉仕へと繋ぎ止め、学究に対する哲学的精神を摂取し得なかった
日本の大学とは一体何なのか、私は深く憂いている。
それは又、政治および経済の道具と化した学歴競争にも接続される「病」である。

202 :大介 ◆m0yPyqc5MQ :2005/12/24(土) 01:23:34
レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 上 岩波文庫 青 550-1
レオナルド ダ・ヴィンチ (著), 杉浦 明平 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003355016/qid=1135354604/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/249-1697392-0533159

レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 下  岩波文庫 青 550-2 岩波文庫
レオナルド ダ・ヴィンチ (著), 杉浦 明平 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003355024/qid=1135354604/sr=1-2/ref=sr_1_10_2/249-1697392-0533159


 繰り返し、繰り返し読んでいる。

 私は自分がレオナルドに似ている、と思う。
とても深い心の傷を幼少に負い、やがて絵画から芸術の道に導かれる。
そこから派生して可能なあらゆる事物に関心が目覚める。
 私はとても孤独だし、かつてから孤独だった。そして恐らくは――孤独であり続ける。
もし内省に拠る昇華に慰めを見出すなら、私達は永遠の遊戯を続けられるだろう。

 レオナルドはたぶん、遊び続ける大人だったのだ。

203 :警告:2005/12/24(土) 22:56:00
851 名前:吾輩は名無しである :2005/12/24(土) 21:18:08
美香さんへの対応が許せません。

今後、あそこを荒らすのならここを荒らします。


852 名前:吾輩は名無しである :2005/12/24(土) 21:19:02
メリー・クリスマス&ア・ハッピー・ニュー・イヤー!



853 名前:吾輩は名無しである :2005/12/24(土) 21:21:51
おめでとう〜〜〜〜♪


854 名前:吾輩は名無しである :2005/12/24(土) 21:26:03


204 :警告2:2005/12/24(土) 23:03:16
195 :吾輩は名無しである :2005/12/23(金) 21:36:21
こほん♪


196 :吾輩は名無しである :2005/12/23(金) 21:39:19
たたかいますか?


197 :吾輩は名無しである :2005/12/23(金) 22:02:50
め(ry が喫茶室に来ています。

日本語がわからないバカ?
わたしもこちらに読了報告を書こうかと。


205 :警告3:2005/12/24(土) 23:10:55
馬鹿だね。

あんたらに逃げる所なんかないのに。

次の警告はないと思え。

206 :吾輩は名無しである:2005/12/24(土) 23:12:57

http://otd4.jbbs.livedoor.jp/shelter/bbs_plain

http://dokuryo.blog25.fc2.com/

207 :吾輩は名無しである:2005/12/24(土) 23:22:26
http://yondance.blog25.fc2.com/

208 :吾輩は名無しである:2005/12/24(土) 23:26:52

読了報告スレッド 黄金の亡命王朝 『蒲団・一兵卒』



美香 URL @
12/24 21:11 どうしますか?. 

D輔の報告。
わたしだったらスルーするけど、ムーは……。
おまかせします(としかいえませぬ)。


ムー大陸 URL @
12/24 23:03 どうするもなにも. 

避難所としての原則論では、のっけざるをえない。。。
これを曲げるとスジが通らない。
でもまあ俺の今の気持ちをお察しいただきたいw
明日、読了報告を1本か2本あげる予定なので、そのときに一緒にアップします。



209 :吾輩は名無しである:2005/12/25(日) 00:18:22
>>208
馬鹿だなこいつらw

210 :吾輩は名無しである:2005/12/25(日) 03:58:24
美香のでぶ

211 :吾輩は名無しである:2005/12/25(日) 13:56:56
偽装に失敗した美香召喚age

212 :吾輩は名無しである:2005/12/25(日) 14:28:17
 

213 :吾輩は名無しである:2005/12/25(日) 16:00:05
「六OOO度の愛」 鹿島田真希 新潮社 2005
作者はロシア正教の信者で旦那さんは神父だそうです。
その経歴に惹かれて読みました。
「女は混沌を見つめている」ではじまる小説の出だしからつまずいた。
見つめていたのは煮立ったカレーのルーだったのですが、そういう
気障な文章の書き手です。
このあとも、かきまわしたアイスコーヒーやアトピーの青年の肌の「混沌」を
女は見つめることになる。

「ナンバーワン・コンストラクション」 鹿島田真希 新潮2006年1月号
M青年は作家志望だけれど、S教授の元で建築を学んでいる。
S教授が「少女」に恋をする。
けれど「少女」は虚無主義者のN講師を愛している。
この4人を中心としたわけのわからない話です。
少女の「赦し」というのがどうやらテーマらしい。
「六000度の愛」と一転して戯画的な文体とストーリー。
けれどぜんぜんおもしろくない。
この小説を読むために「新潮」を買っただけにちょっとがっかり。

同じ新潮1月号にある水村美苗さんのエッセイの一節が
私の気持を代弁してくれた。
「これだけ多くの才ある若い書き手がいて、優れた文学が書かれて
いない筈はないのだが、それにめぐりあうために割く時間が惜しい」
野上弥生子さんは送られてきた文芸誌を封も切らずにストーブに投げ込んでいたそうです。

214 :吾輩は名無しである:2005/12/25(日) 16:12:18
「宙返り」 大江健三郎 講談社文庫 2002
一度は棄教宣言した宗教団体の教祖が、再び信者を集めて
四国の山奥に新しい教会を立ち上げる話。
この小説で不思議なのは教祖自らがすべての教えはインチキだった
と告白してから、10年間も信仰を保ち続けた人々がいるということ。
教典もなしにそんなことがありうるだろうか?
第6章「案内人(ガイド)」のなかで、教祖が棄教したあとも信奉者がいたという
17世紀のサバタイ主義の話が紹介されていましが、歴史的事例を挙げるだけでなく、
小説自身の力によって読者を納得させてほしいと思う。

それにしても大江さんは「肛門」にまつわる事柄が好きですね。
作中のダンサーのしまりのない口――「ほの暗い赤さの口腔」も肛門になぞらえたくなる。
実際、木津のアヌスを貫いた育雄のペニスは、最後はダンサーの口におさまるのです。

215 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2005/12/25(日) 16:23:03
>>213
おつかれさまです。
いつもなごまされます。
自分はいつも、どこか肩肘張った読了報告しかできない質なのですがw

216 :吾輩は名無しである:2005/12/25(日) 16:23:56
「縮図・インコ道理教」 大西巨人 太田出版 2005
高校教師と出版社員と喫茶店店主の3人が
新興宗教団体「インコ道理教」による地下鉄有毒ガス殺人事件を通して
天皇制、国家について懇談する。
「母子草」という喫茶店の店名の由来である樋口一葉についての談話もあります。
堅硬な政治的思想だけでなく、耽美な文芸も共に語るのが大西巨人さんの魅力。

217 :吾輩は名無しである:2005/12/27(火) 21:13:24
まきな ◆I2rWVFDN2M =美香 ◆ESCVVanDCU

まきな ◆I2rWVFDN2M =美香 ◆ESCVVanDCU まきな ◆I2rWVFDN2M =美香 ◆ESCVVanDCU

まきな ◆I2rWVFDN2M =美香 ◆ESCVVanDCU まきな ◆I2rWVFDN2M =美香 ◆ESCVVanDCU

まきな ◆I2rWVFDN2M =美香 ◆ESCVVanDCU





まきな ◆I2rWVFDN2M =美香 ◆ESCVVanDCU



218 :吾輩は名無しである:2005/12/28(水) 12:27:14
         \      / \      / \      /
    ・      \ / \ / \ / \ /
        ;(●))(●)(●)(●)llll)(●)(●)(●)((●);
       (●)(●)(●)(●))(●)(●)(●)(●))(●)(●)
 \__ (●)(●)●)●)(●))(●)(●)(●)(●)(●))(●)__/ カサカサ
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   __(●)(●)((●)((●))(●)(●)(●))(●)(●)(●)(●)__
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       (о●)(●))(●)(●))(●)(●)(●)(●)●0)
         ( ;●ξ●:)( ;●ξ●:( ;●ξ●:( ;)

219 :吾輩は名無しである:2005/12/28(水) 12:35:23

























スペースを。

220 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/12/28(水) 13:04:55
「芭蕉を歩く 奥の細道」(吉岡勇著/駸々堂ユニコンカラー双書)絶版

→「おくのほそ道」は何度も読んだが、
そこに描かれている風景を見たことはない。
おりしも古本市でこの薄い本を買う。200円。カラー写真がたくさん。
視覚で「おくのほそ道」を理解しようというわけである。
結果は拍子抜け。たしかに写真はどれもきれいなんだけど、うーむ。

「おくのほそ道」を読む。風景をイメージする。
そのじぶんのイメージのほうが実際の写真よりもしっくりとするんだ。
「おくのほそ道」を読むと、ぜんぜん関係のないかつての旅行が思い返される。
芭蕉が普遍的な旅を描いているからである。
読者は私的な旅の記憶を「おくのほそ道」とダブらせる。
そういう喚起力をこの江戸時代の紀行文はもっている。
概説書が無数に発行されるゆえんである。
わたしは原文だけを何度も読み返すことにする。

221 :吾輩は名無しである:2005/12/28(水) 13:07:43
おや




「あああああパンダキックパンダキックパンダキックぅううううううううっっっ」





とヨンダ人形を使ってオナってる美香さんこんにちは

222 :吾輩は名無しである:2005/12/28(水) 13:27:42
コテが占有してるのは明らかだかけど、
文学板らしい良スレなんだからあまり荒すなよ。

223 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/12/28(水) 13:28:56
「釈尊物語」(ひろさちや/平凡社カラー新書)絶版

→インドのカラー写真がたくさん。これを買った理由です。
ブッダが身近に感じられるのはインドを旅行をしたからだと思う。
生まれたルンビニー、悟りを開いたブッダガヤー、亡くなったクシナーガル。
ほかにも八大聖地と呼ばれる仏跡地はすべて行った。
当時は投げやりな義務感から足を運んだに過ぎなかった。
しかし今になってとても貴重なことのように思えてくる。
この本のようなブッダの伝記を読んでいると行った場所が思い返される。
するとブッダが知らぬひとではないように思えてくるのだから
ふしぎなものです。

224 :吾輩は名無しである:2005/12/28(水) 13:46:58




「あああああパンダキックパンダキックパンダキックぅううううううううっっっ」





とヨンダ人形を使ってオナりすぎて
ヨンダ人形の足が壮絶な臭いになってる美香さんこんにちは

225 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/12/28(水) 14:47:52
「小説――いかに読み、いかに書くか」(後藤明生/講談社現代新書)絶版*再読

→まえに読んだのは大学に入ってばかりのころだったか。
知らないことばかりで圧倒されたのを覚えている。
まだまだ読書が足らないのだとだいぶあせった。
いまはもうあせらない。ちがいを感じるだけである。人間がちがうのだ。
関心の所在がじぶんとはまったく異なる人間の存在にため息をつくしかない。

冒頭、後藤明生は小説を定義する。
「小説」=「何をいかに書くか」=「何を」+「いかに」
「何を」のほうは一般化することはできない。
才能や個性と呼ばれるその作家にしかないものである。
作家を形づくった固有の体験もそう。いずれにせよ天与のものである。
しかし「いかに」は別だと後藤明生はいう。
この新書のスタート地点である。
「いかに」=「方法」は学び取ることができる。
たとえばドストエフスキーがゴーゴリから喜劇化の方法を学習したように。
後藤明生はこの新書でみずからをドストエフスキーに擬する。
日本のゴーゴリたる近代文学者たちを俎上(そじょう)にあげる。

226 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/12/28(水) 14:48:33
(つづき)

「何を」と「いかに」。
このふたつを小説の構成要素と見る視点はおもしろい。
その前提の上で読後感を簡単に述べる。
「何を」と「いかに」の比重に違和感を覚えた。
後藤明生がいうほど「いかに」は小説にとって重要なのか。
「いかに」など「何を」の圧倒的な猛威のまえにひれふすだけものではないか。
「いかに」は自由に取捨できる複数の選択肢ではなく、
「何を」が唯一的に決定する宿命めいたものではないでしょうか。
後藤明生の作品をひとつも読まなくても、
この小説家が「いかに」を重視して創作しているのがわかる。
それをもって「何を」がないからだろうというのは意地悪なのかどうか。
この本のタイトルは「小説――いかに読み、いかに書くか」。
わたしの関心は「何を読み、何を書くか」にしかありません。

227 :吾輩は名無しである:2005/12/28(水) 15:11:42
202 名前:大介 ◆m0yPyqc5MQ メェル:sage 投稿日:2005/12/24(土) 01:23:34
レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 上 岩波文庫 青 550-1
レオナルド ダ・ヴィンチ (著), 杉浦 明平 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003355016/qid=1135354604/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/249-1697392-0533159

レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 下  岩波文庫 青 550-2 岩波文庫
レオナルド ダ・ヴィンチ (著), 杉浦 明平 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003355024/qid=1135354604/sr=1-2/ref=sr_1_10_2/249-1697392-0533159


 繰り返し、繰り返し読んでいる。

 私は自分がレオナルドに似ている、と思う。
とても深い心の傷を幼少に負い、やがて絵画から芸術の道に導かれる。
そこから派生して可能なあらゆる事物に関心が目覚める。
 私はとても孤独だし、かつてから孤独だった。そして恐らくは――孤独であり続ける。
もし内省に拠る昇華に慰めを見出すなら、私達は永遠の遊戯を続けられるだろう。

 レオナルドはたぶん、遊び続ける大人だったのだ。

228 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/12/28(水) 15:47:11
「私の文章作法」(清水幾太郎/中公文庫)

→清水幾太郎は文章上達のために読書日記をすすめている。

「読書日記の効用ですか。そうですね。
自分の感想を書こうと身構えるまでは、面白いという感じ、退屈な感じ、
そういう感じしかないものです。そして感じというものは、
一日二日と時間が経つにつれて、どこかへ消えてしまうものです。
感想を書こうとすると、感じでは済みません。
感じは、心の中にあるだけで、書けるものではありませんから。
書こうとすれば、この漠然たる感じを反省して、
書けるように整理せざるを得ません。
読書日記というのは、そこへ自分を追い込むことなのです。
そこへ追い込まれて初めて、
読者の精神と作者の精神が噛み合うようになるのです。
いつも漠然たる感じだけで済ませていたら、何百冊読んだところで、
それは読者の心に深く刻み込まれることはないでしょう」(P160)

まったく同感です。
興味ないでしょうが、わたしのやり方を書きます。
本を読むときはかならずそばに紙(チラシの裏)とペンを用意しておく。
読んでいる最中、気になったことをその場で単語だけでも紙に書きつける。
そのメモが読了報告を書くときのとっかかりになる。
メモは本が通り過ぎていったあと、精神につけていった傷のようなもの。
読了報告は、その傷を処置すればいいということになる。
たまに白紙のまま読み終わる本もある。
こういうときは感想を書くのに難渋する。
ちなみにこの「私の文章作法」。
そばに置いた紙は読後も白紙のままでした……。

229 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/12/28(水) 16:26:24
「イスラームの日常世界」(片倉もとこ/岩波新書)*再読

→大学時代、レポートのために読まされた本。
だれだ? 新書に赤線を書き込んだのは。
それも定規を使わず汚い。あたまの悪そうな大学生。
かつてのわたしです。

去年のインド旅行でバングラデッシュのひとと話した。
そういう体験があると読書が能動的なものになる。
ああ、かれは不良イスラームだったんだな。
ビールをぐびぐび飲みながら、バーで話したのだから。
ご存知、イスラム教徒はお酒を飲んではいけません。

いま宗教に関心を持っている。
宗教の本質をひとことでいえば「祈り」だと思う。
人間は自由ではない。
生まれてくる環境を自分では決められない。顔も性格も知力も。
いつ死ぬかも同様。死んだ後にどうなるのかも知りえない。
そんな人間にもできることがある。祈りだ。
イスラームにはふたつの祈りがあるという。
サラート。唯一神アッラーにひたすら感謝をささげる祈り。
ドゥアー。唯一神アッラーに頼みごとをする現世利益のための祈り。
サラートの存在がイスラームを他の宗教から特徴づけるそうです。

230 :美香 ◇ESCVVanDCU:2005/12/28(水) 16:29:14
大学教授―そのあまりに日本的な
桜井 邦朋 (著)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4805203927/ref=pd_ecc_rvi_4/249-1697392-0533159


 大学組織はプラトンのアカデメイアに始まる、と私の今日の知識は語る。
やがて時代は流れ、現代日本に『大学[中国古典、四書の1つから援用]』が出来る。

 大学全入時代が叫ばれて久しい。
日本人の若者は兵役に代わって皆が、「モラトリアムの遊園地」で四年間を遊ぶ権利を得るだろう。
 しかしあなたはここで問うかも知れない。
『果たして大学組織とは何ぞや』
と。

 この本は日本の大学に残存する前近代体制を暴く。
別に研究成果も挙げないままで教育者の名を欲しいままに悠々と暮らす「先生」が、
我々の目の前に鮮やかに描かれる。
併せて『切磋琢磨するアメリカの科学者達』という本を読んだのだが、日本が古代ギリシャから離れて
どれ程の異郷か、嫌というだけ思い知らされる。
 科挙の伝統を封建主義的体制構築の奉仕へと繋ぎ止め、学究に対する哲学的精神を摂取し得なかった
日本の大学とは一体何なのか、私は深く憂いている。
それは又、政治および経済の道具と化した学歴競争にも接続される「病」である。

231 :吾輩は名無しである:2005/12/28(水) 16:35:05
美香って文章うまいな

232 :吾輩は名無しである:2005/12/28(水) 17:02:14

  言語的演算とは耳と口の間の空間をメディア化することで賄われる、つまり身体表出を基盤に
  もつ回路である。掲示板に書き込む内容を考える際にいちいち発話しないのが通常だが、ひとは
  自分の考えている内容の確かさを口から発せられる音声を自身の耳で聴取することにより確証
  する生き物である。つまりそこには始原的な母の思いで、懐かしい空間の創出が試みられている
  わけだが、件の彼については、つたない内容であれ必死に書き込み内容を考えている際に、口膣の
  自動運動が開始してしまい、だがそのことに無自覚な彼は自らの口膣運動を母の乳房んの思い出
  とすり合わし、そこに自身の./ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\せを得て、想像的な母の優しさに背中を
\ 押されるように、「書き込む」|  うるさい黙れ   |ゆえに乳房へ執着が散見され /
   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\_______/ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
                           ∨      (゚д゚ )
                          <⌒/ヽ-、__ノヽノ |
                        /<_/____/ < <



233 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/12/28(水) 17:29:06
「ヒンドゥー教とイスラム教」(荒松雄/岩波新書)品切れ

→副題は「南アジア史における宗教と社会」。
インド史は、ヒンドゥー教とイスラム教の争いの歴史といってもよい。
現在もインド・パキスタン間には、
カシュミール問題といったしこりが残っている。
本書はインドにおけるヒンドゥー教とイスラム教の関係を、
まずは教義の相違からはじまり、
だんだんと著者の専門の社会関係まで追求していく。

簡単にインド史を振り返る。
おおむかし。インダス文明。
BC1500。アーリア人の侵入。バラモン教誕生。これがのちにヒンドゥー教になる。
BC268。仏教大好きアショーカ王。仏教は1000年をかけてすたれていく。
AD1206。イスラーム支配開始。奴隷王朝。
AD1526。ムガル帝国。これもイスラーム支配。
AD1600。イギリス、東インド会社を設立。植民地化を推進。
AD1857。セポイの反乱。鎮圧される。ムガル帝国崩壊。イギリス支配開始。
AD1947。インド・パキスタン分離独立。

イスラームはなぜヒンドゥーに勝ったのか。
著者は教義に理由を求める。
神前の平等を説く一神教のイスラームは連帯感・同胞感をもちやすい。
一方、多神教のヒンドゥーはカーストごとにばらばら。
イスラームの勝利は必然だったという。
次の指摘もおもしろい。
イスラームに支配権を奪われたヒンドゥーの上位カースト。
かれらは連帯してイスラームに対抗することをせず、
腹いせに下位カーストをしめあげた。
だから3000年もカースト制度が続いたのではないかというのが著者の試論。
うん、刺激的な良書でした。

234 :おさむ記念日♪:2005/12/29(木) 13:57:43
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235 :名無しさん@自治スレッドでローカルルール議論中:2005/12/29(木) 14:00:03




236 :名無しさん@自治スレッドでローカルルール議論中:2005/12/29(木) 14:00:55




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242 :名無しさん@自治スレッドでローカルルール議論中:2005/12/29(木) 14:06:59


243 :名無しさん@自治スレッドでローカルルール議論中:2005/12/29(木) 14:08:00


244 :名無しさん@自治スレッドでローカルルール議論中:2005/12/29(木) 14:10:02


245 :おさむ記念日♪:2005/12/29(木) 14:14:12
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246 :名無しさん@自治スレッドでローカルルール議論中:2005/12/29(木) 14:22:38
111 名前:名無しさん@自治スレッドでローカルルール議論中 :2005/12/29(木) 14:13:12
でも、俺はこの文学板の社会性の無さが好きだ。社会性が無い集団
だからこそ安心してものを語れるってところがあるね。
文学板の煽りってのは実際のところ感情的煽りが多いからね。でも
他の板ではマジでこっちのこと調べ上げるからね。怖いよね。そう
いうことされたら。
まあ、サラリーマンにとっては、今、ネットで自由に物を語れる環
境じゃなくなっているね。

俺お前が誰だか知ってるよ。


247 :名無しさん@自治スレッドでローカルルール議論中:2005/12/29(木) 14:24:17














248 :名無しさん@自治スレッドでローカルルール議論中:2005/12/29(木) 14:34:48









249 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2006/01/05(木) 20:49:07
あけましておめでとうございます。

『小説――いかに読み、いかに書くか』 後藤明生 講談社現代新書 1983年

とんでもない長文になってしまったので、本文は以下にて。
読んでいただければ幸いです。

その1 http://dokuryo.blog25.fc2.com/blog-entry-217.html
その2 http://dokuryo.blog25.fc2.com/blog-entry-224.html
その3 http://dokuryo.blog25.fc2.com/blog-entry-225.html
その4 http://dokuryo.blog25.fc2.com/blog-entry-226.html

250 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2006/01/05(木) 23:20:18
年末年始に読んだ本

『文学回想 憂しと見し世』 中村光夫 中公文庫版 昭和57年
『明治・大正・昭和』 中村光夫 岩波書店 同時代ライブラリー版 1996年
『従妹ベット』 上・下 バルザック 平岡篤頼 訳 新潮文庫 昭和43年
『しんとく問答』 後藤明生 講談社 1995年
『日本近代文学との戦い』 後藤明生 柳原出版 2004年

実を言うと、後ろの2冊はまだ終わりまで読みきれていない。
でもまあ、ほぼ読了。
感想は追ってぼちぼち書こうと思います。

251 :名無しさん@自治スレッドでローカルルール議論中:2006/01/06(金) 10:33:29
>>250
『日本近代文学との戦い』の読了報告楽しみに待ってます。
すごく大好きな小説なので、ムーさんがどう論じるか楽しみです。
写生文、写生文

252 :名無しさん@自治スレッドでローカルルール議論中:2006/01/06(金) 11:28:25
お、名乗り忘れ。まあいいや。
『小説 いかに読み、いかに書くか』の感想も読ませて頂きました。
乙です。

253 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2006/01/07(土) 01:11:03
>『日本近代文学との戦い』の読了報告楽しみに待ってます。

ありがとうございます。
でもちょっとあとになるかも。
しかしあそこで絶筆というのはいかにも惜しい。
たまたま今の私の関心事が二葉亭と中村光夫だったりするので。
まあ後藤明生に「絶筆」なんて言葉は似合いませんがw

>乙です。

そちらこそおつかれです。
あんなだらだら長いもんを最後まで読んでくださって、涙涙です。
ただ、あれは実はまだ未完だったりするw

254 :名無しさん@自治スレッドでローカルルール議論中:2006/01/07(土) 01:40:43
私物スレ晒しage

255 :名無しさん@自治スレッドでローカルルール議論中:2006/01/07(土) 02:06:55
後藤明生すきだなあ。
正月にはきまって読みたくなる。

256 :美香 ◆ESCVVanDCU :2006/01/07(土) 14:32:56
「インド 旅の雑学ノート 熱闘編」(山田和/ダイヤモンド社)

→安易にまえがきから引用する。
「正直に言って、ほんとうの意味で旅ができるところは、
いまやインドをのぞいて世界中どこにもない」
「インドの旅は『闘い』であり、『修行』であり、
それはやがて『悟りへの道』へと続いているというところが、
他の国への旅とくらべて大いに異なるところだ」

このインドマニアは「あとがき」で
じぶんはほんとうにインドが好きなのか自問する。
「好きなところもあるが、うんざりしているところもある。
鼻につくところもあるが、なにものにもかえ難い魅力もある。
きっとそういうことで長く続いているのだろう」

あまたあるインドエッセイのなかの1冊。
インド旅行記は他国のものとくらべると断然、出版点数が多い。
だれもがマイ・インドを語りたくなるのである。
そのどれもが、まあ、おもしろいといってよいのはひとえにインドの力だと思う。
著者はインドの熱源をただしく礼讃し、同時に嘆息しながら非難する。
インドの長所は、別の面から見たら短所になると悟ったがためである。
仏教調にいえば「長所即短所」。
インドの旅は苦労ばかりだ。しかしその苦労こそが旅の楽しみなのだ。
著者はいう、「この国を旅すると何人かは新興宗教の教祖になる」と。
そういうご本人も紙一重なところがおもしろい。わらった。

古本屋ワゴン100円本。
インドでは500円も払えばけっこうなホテルに泊まることができる。
そのインド的金銭感覚からすると定価1600円はだせません。ごめんなさい。

257 :美香 ◆ESCVVanDCU :2006/01/07(土) 15:09:18
「エリアガイド147 インドの旅」(昭文社)絶版

→総カラーのガイドブックです。
1ページ目から最後まで順に読み進む。
意外だった。おもしろいのだ。
インドの歴史・神話・食物等を旅行者へコンパクトに紹介するコラムがある。
細かい知識はすべて省略して、大本だけを伝えようとするその姿勢は、
けなげなツアーコンダクターを連想させ、思わずいたわりたくなる。
名所の紹介文もおなじく。
名所旧跡というのは、とどのつまり歴史的に重要な場所である。
だからインド史の勉強にもなる。
レストランガイド。本文横にはおいしそうなインド料理の写真がある。
これで知識欲のみならずグルメ欲まで満たされる。
ちなみに、ひとは実際に食べなくても満足するという事実は、
グルメ番組の隆盛が証明している。

この本は至れり尽くせりで大満足。
ガイドブックは読み物として見直されてもいいのかもしれません。

258 :美香 ◆ESCVVanDCU :2006/01/07(土) 16:41:41
「仏教とインドの神」(ひろさちや編/世界聖典刊行協会)絶版

→このような一般向けのわかりやすいヒンドゥー教の本はめずらしい。
なぜか。インド哲学研究者が書くからである。
インド哲学は世界でも名だたる難解な哲学だという。
そんな学問に興味をもつ研究者は決まって平明を軽蔑するもの。
わかりやすい文章など書いてしまったら一生の恥とでも思っているのではと疑う。
難解な文章を書くのが高尚な人間の証(あかし)と信じるがためである。
かといってヒンドゥー教とインド哲学は密接な関係にあるから、
ヒンドゥー教だけの専門家というのはいない。
専門外のことを書くのを(正確には間違いを指摘されるのを)恐れるのが学者一般。
かようにして日本ではヒンドゥー教があまり知られていないという現状になる。

この稀有な概説書から学んだことは多い。
実はヒンドゥー教自体はあまり知られていないのにもかかわらず、
この宗教の神々は我われ日本人にとって身近なものになっている。
帝釈天、大黒天、鬼子母神、仁王、阿修羅、閻魔……すべてヒンドゥーの神々である。
中国を経て日本に輸入されたのは仏教ではなく、
むしろヒンドゥー教が伝わったといってもいいくらいなのである。

259 :美香 ◆ESCVVanDCU :2006/01/07(土) 16:42:49
(つづき)

どういうことか。
ブッダはヒンドゥー教(正しくは前身のバラモン教)を批判することから、
仏教の開祖になった。当時主流だった祭式主義の宗教を否としたのである。
ブッダの教えは出家信者のためのもので、のちに小乗仏教と揶揄される。
大乗仏教はブッダ入滅後、約500年のときを経て誕生する。
大乗仏教の信仰母体は在家信者である。
特徴はブッダを超人化(神格化)したこと。ここに功徳という観念が生じる。
「信者になればいいことがある」、現世利益の思想である。
(功徳とコインの裏表なのが慈悲。概して大乗仏教側は慈悲を強調するが、
それは功徳に背面から支えられてはじめて成り立つのではないか)。
この大乗仏教がインド亜大陸に広がる過程でヒンドゥーの神々を取り込んだ。
のちに中国を経由して日本へ伝えられたのがこの大乗仏教である。

注意してほしい。
仏教開祖のブッダはヒンドゥー教(バラモン教)を否定した。
そのヒンドゥーの神々を積極的に摂取したのが大乗仏教なのだ。
とすると、我われが浅草帝釈天で賽銭(さいせん)を投げ入れ拝むとき、
信仰しているのはほんとうに仏教なのか。ヒンドゥー教のほうではないか。
この主張がスタート地点として、この概説書の中に位置を占めている。
わかりやすい本になったゆえんではないかと思われる。
難解な本というものは、とかく基点の所在が不明なものである。

260 :美香 ◆ESCVVanDCU :2006/01/07(土) 17:45:01
「ヒンドゥー教の本」(学研)*再読

→ヒンドゥー教の初学者が書店ではじめて手に取るのがこれ(おそらく)。
おすすめではない。
それなりに勉強したあと読み直したのに、それでもわからないところが多々ある。
学者さん(といっても講師レベル)はどういう心持ちで寄稿するのか。
じぶんが苦労して知り得たことを簡単に素人には教えるものか。
そんな意気込みすら感じる悪文の数々をまえにして苦笑するほかなかった。

ヒンドゥー教の全体図はいぜん書いたことがあるから、
今度は一般的なヒンドゥー教徒の生活を紹介する。
宗教を見るには教義と信者の生活、ふたつのライトの当て方がある。
ヒンドゥー教徒。毎日の信仰生活の中心となるのがプージャー(供養祭)。
信仰する神々を祀った神像がどの家庭にもある。
日本における仏壇のようなもの、といってよいのか、うーむ。
ヒンドゥー教徒は毎日、神像のもとに神様が来るものとして供養する(もてなす)。
下世話にいえば、そのかわり家内安全、商売繁盛などなどを
よろしくお願いしますと祈る。つまりギブ・アンド・テイク。
これはヒンドゥー教の前身であるバラモン教からの伝統だという。
人間と神々が祭式を通じてやりとりする。
むずかしいことばで「神人互恵(しんじんごけい)」と呼ばれる宗教形態。
で、いま紹介したのが「神人互恵」の家庭バージョン。いわば日常的信仰。

261 :美香 ◆ESCVVanDCU :2006/01/07(土) 17:45:38
(つづき)

この家庭的信仰を地域的レベルに広げたのがホーリー(祭り)。
この非日常的なホーリーこそヒンドゥー教最大の見どころ。
我慢に我慢を重ねた個々の精神が(カースト制度!)奔流のごとく解放される。
ヒンドゥー教徒の非日常的な信仰はもうひとつある。それが巡礼。
ホーリーは時間的なもの。1年(あるいは数年)に1回のお祭り。
比して巡礼は空間的なもの。非日常的な空間(寺院、聖地など)まで移動する。

乱暴にまとめれば、ヒンドゥー教徒は日常をプージャーでやり過ごし、
その間にたまった垢(あか)のような鬱積を非日常のホーリー、巡礼で捨てる。
実に健康的な精神生活である。酷暑、貧困、差別に苦しみながらも
明るさを失わないインド国民(の8割を占めるヒンドゥー教徒)の
根源たるにふさわしい宗教だと思う。

262 :美香 ◆ESCVVanDCU :2006/01/07(土) 19:43:12
やっちゃった。
いま2時間近くかけて書いた長文読了報告をうっかり消してしまった。
送信直前で。立ち直れません。

これも宿命なのでしょう、あははは。
明日また書きます。
もっとわかりやすくコンパクトに書き直して。
仕方ありません。宿命なのですから。

263 :美香 ◆ESCVVanDCU :2006/01/08(日) 13:43:56
「仏教入門」(ひろさちや編/池田書店)*再読

→本だまの奥からごそごそ取り出した。
買ったのは大学1年生のとき。
受講していた「東洋思想」がさっぱりわからずテスト前に読んだ。
まさかこれを学業目的以外で読み直すような人生を送ることになるとは当時は(苦笑)。

仏教のわからないところ、つまり疑問点の所在がようやくわかった。
これは実は大事なところ。
曖昧模糊(あいまいもこ)としたわからなさから
ステップアップしたということなのだから。
仏教の二面性の共存が納得いかないのである。
著者のひろさちや氏のことばを借りれば、仏教には
「仏の教え」と「仏になるための教え」のふたつがある。
「修行」(戒律)と「一切衆生悉有仏性」(だれもが仏になれる)である。
小乗仏教的信仰と大乗仏教的信仰といってもよいのかもしれない。
このふたつがどうしておなじ仏教に共存できるのかがわからない。

264 :美香 ◆ESCVVanDCU :2006/01/08(日) 13:49:21
2500年前、ブッダが説いたのは出家者のための教えである。
いかに修行したらば悟ることができるのか。
どうすれば一切皆苦の現世における諸行無常・諸法無我を見切り、
ブッダの到達した涅槃寂静へいたることができるのか。
その方法を簡潔に表現すると、あの有名な四諦八正道になるわけである。
西洋の学者が原始仏典を読むと、
これは宗教ではないと指摘するものもいるらしい。
ブッダの説いたのは道徳であって宗教ではないと。
祈りがないというのがその理由である。たしかにそうだとわたしも思う。
「酒を飲むな、嘘をつくな」の原始仏典を読んでも安らぎは得られない。
原始仏典は道徳本や技術指南書といったおもむきがある。

ブッダ入滅後、500年のときを経て生まれたのが大乗仏教である。
彼らは従来の仏教を出家者の独りよがりだと非難し小乗仏教と軽蔑した。
在家信者のための仏教の誕生である。
大乗仏教が強調するのは「慈悲」(利他行)と「一切衆生悉有仏性」(菩提心)。
その主張を正統とせんがために歴史上実在したブッダが神格化された。
仏教の開祖・ブッダがおのれの超人化を知ったらどう思うであろう。
臨終の際、死を嘆く弟子に向かって、
自分の説いた法だけを拠りどころにして修行に励めと残したのがブッダである。
しかし大乗の教えは非力な我われに優しい。そこには安らぎがある。
仏様のおおきなご加護を思うと活力も生まれる。
が、これを仏教といってよいのだろうか。冒頭の疑問である。

265 :美香 ◆ESCVVanDCU :2006/01/08(日) 13:53:30
(つづき)>>264にも入れるのを忘れました。

大好きなカレーライスを食べながら、ふとひらめいた。
仏教をカレーと考えてみたらどうだろうか。
難解な仏教用語で考えるよりもわたしには向いているかもしれない。
ブッダの説いた原始仏教はスパイス盛りだくさんの激辛カレー。
たしかに身体にはいいのだろうが食べるひとを選ぶ地域限定メニュー。
時代がくだると、おなじインド人でも食べられないものがでてくる。
そこで登場したのが食べやすいカレー(大乗仏教)。
これは美味なるかなと中国にも伝わる。当然、中国風の味つけがされる。
最後にカレーがたどりついたのが日本。日本人は甘口カレーを好んだ。
酒との相性もいい日本カレーの誕生である。
日本の僧侶(出家者)はブッダが飲むなといった酒を平気で飲む。
親鸞はブッダが禁じた出家者のセックス(妻帯)も可とした。
砂糖のたっぷり入った大甘のカレーである。

266 :美香 ◆ESCVVanDCU :2006/01/08(日) 13:54:41
(つづき)

原点に戻る。
問題はこの日本料理をカレーと呼んでもいいかどうかである。
インド人がレシピのまったく異なる日本カレーを食べたら、
これはブッダがつくったカレーではないというのは間違いあるまい。
なら、どちらを食べるべきか。本場のインドカレーか、日本カレーか。
ところが日本カレーという決まったレシピがあるわけではないのでややこしい。
日本は料理人の数だけカレーがあるのである。
日本の名料理人――、空海、最澄、法然、親鸞、日蓮、一遍、栄西、道元、池田大作。

ため息をつくしかない。
はたして日本(の大乗)仏教を仏教といってもよいのだろうか。
それとも原始仏教だけが本物で、あとはまがい物なのか。
ことがカレーなら、おいしければなんでもいい。
それがたとえカレーではなかったとしても、おいしかったら満足する。
それに毎日、おなじカレーを食べなければならない義務もない。
しかし仏教の話になるとそう簡単にはいかない。
「仏教=カレー」を思いついたときは大発見をしたつもりだったのだが、
そう甘いものではないようである。仏教もカレーも甘くない。

267 :美香 ◆ESCVVanDCU :2006/01/08(日) 14:00:27
>>266
訂正します。
あらぬ誤解をされたくありませんから。

(訂正後)
日本の名料理人――。
空海、最澄、法然、親鸞、日蓮、一遍、栄西、道元……池田大作(笑)。

よろしくお願いします。

268 :美香 ◆ESCVVanDCU :2006/01/08(日) 16:44:26
「北の河」(高井有一/文春文庫)*再読
「鮎」(丹羽文雄/集英社文庫)*再読

→文学をふたつにわける傾向がむかしからある。
言わずと知れた大衆文学と純文学というあれです。
私的に純文学を定義すると、作家がじぶんの悩みに向かって書いている小説。
この定義に従えば、「北の河」「鮎」どちらも正統的な純文学となる。
高井、丹羽ともにこの小説を書かずにはいられなかった。
小説を書くことで作者が固有の難所を通り過ぎることができた。
よくいえば成長した、わるくいえば落とし前をつけた。
ここまででも作者は文学の存在に感謝すべきである。
しかし両作品とも幸運に、周囲から評価される結果と相成った。
純文学の成功例である。

話をかえる。最近、純文学をまったく読む気にならない。
思う。どんなひとが純文学小説を読んでいるのだろう。
むかしの純文学であれ、今日の作品であれ。
純文学というのは子どものためにあるのではないかとふと思った。
悩みのない学生が、純文学作家の個人的な悩みを我が事のように悩む。
あるいは身体はおとなだが、精神的にはまだ子どものままの人間。
ふつうのおとなはじぶんの悩みに手一杯でひとの悩みにまでつきあいきれないのでは?
純文学を読むおとなとしては他に同業者(志望もふくむ)がいる。
これは飯のタネなのだから仕事の一環といってもいいだろう。
純文学は売れない。だれも読まない。当たり前のことだと思う。
嘆くほうが間違っている。
純文学作家だけではなく人間はだれしもじぶんが第一なのだから。

269 :年20,000ページ ◆EiH1/X6Idw :2006/01/10(火) 22:18:58
ムジール「三人の女」
今日の通勤途中で読了。
カフカ、トーマス・マンに比肩し得る作家ともいえるだけに凄い。
凄いに尽きる。カフカの「城」にも通ずるような情景設定。マン
にも通ずる非日常世界。
巨匠に鋭利な切り口の味わいは深かった。

270 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2006/01/12(木) 00:42:46

『ロストワールド』 手塚治虫 角川文庫版 平成6年

オリジナルは1948年刊行。
最近、「私的手塚治虫ルネッサンス」とでも呼べそうな変化が私に訪れている。
ここ十数年来、私はアンチ手塚でした。
作為に満ちた、うすっぺらいペシミズムやヒューマニズムにゃ虫唾が走るぜ!
ぺっぺという感じ。
しかし私は、手塚治虫の作品というよりは、その作品群の纏う神話的イメージを
嫌悪していたに過ぎないことに、最近気が付いた。
本作も、何ともアンモラルでエロい。
特に、植物から合成された(!)二人の女の子のエピソードはやばいです。
探検隊が、宇宙の真中で食糧難に陥った時、一人は文字通り「食べられて」しまう。
もう一人は主人公の若い科学者と二人きりで、「ママンゴ星」に取り残される。
ママンゴ星が五百万年後に地球に再接近するときは、彼らの子孫の「動植物人」が
繁栄してるでしょう、ちゃんちゃんという落ち。
ちなみに狂言廻しのマスコットキャラ「ミイちゃん」は、最後の最後で意味もなく
死んでしまう。
当時の純な少年少女には、この意地の悪い突き放し方とか、衣服が破れて胸が
あらわになった植物少女とか、恐竜にどんどん食われてしまう悪党どもとか、
強烈すぎて夢にうなされたんじゃないか。
こういう手塚の「教育的悪意」は、併録の「一千年后の世界」でも全開です。
ヒロインの少女に片思いする原始人は、色々がんばって主人公たちを助けるんだけど、
容貌の醜さから、最後まで彼らの誤解を解くことができず、無情にもタイムマシンで
原始時代に送り返されてしまう。主人公の少年少女は、せいせいした顔をして家路につく。
めでたしめでたし。

271 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2006/01/14(土) 03:03:16
漫画2連チャンですみません。これでおわりにします。

『失踪日記』 吾妻ひでお イースト・プレス 2005年

 作者の実生活を淡々と描いた実録漫画である。
 しかし、描かれる生活そのものは、決して淡々とはしていない。
 作者は何本もの連載を抱える中で、ある日突然失踪してホームレスにまで身を落とし、
拾われて肉体労働者となり、その後漫画家として再起するも、アル中になって幻覚症状を
起し、精神病院に強制入院させられるのである。
 思い出すのは山頭火と坂口安吾のことである。
 まず、漫画の表現する堕落が、とうとう安吾の『古都』に追いついてしまったという
驚きがある。これは大事件ではないか。
 では堕落とは何だろうか。ここで安吾と一緒に思い起こすのが山頭火なのだ。
 もっとも私は、今まで山頭火など読んだことがない。
 ではなぜ山頭火かと言えば、つい最近、たまたまある人から、「どうしようもない
わたしが歩いてゐる」という一句を教えられたからだ。
 私は、山頭火はこの句しか知らないけど、ああ、たしかに堕落とはこういうことなのだ
と思った。
 「どうしようもないわたしが歩いてゐる」
 つまり、「わたしは歩いてゆく」でも「わたしは歩いてきた」でもない。山頭火は
「どうしようもないわたし」を客体視しているのである。「わたしがあるいてゐる」現在の
さまを、斜め上方あたりから、じっとカメラのように見つめているのである。ドキュメン
タリーである。つまり、堕落とは認識の別名ではないのか。
 吾妻ひでおは、彼独特の、柔らかで丸っこい四頭身の絵で、「どうしようもないわたしが
歩いてゐる」様を描き出す。しかし、堕落が見つめるものは自分だけではない。堕落は、
自分と同じ地平で、他人をもじっと見つめるのである。それはもう、ただじーっと見つめる
のだ。

272 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2006/01/14(土) 03:04:15
(つづき)
 『失踪日記』が『古都』に匹敵する傑作たりえているのは、正にこの点だ。安吾は、
長編小説『吹雪物語』の執筆に行き詰まって京都に逃げ、貧民窟のような安宿で、ただ碁を
打って安酒を煽るだけで1年を過ごす。その目に写った安宿の住民の面々の描写が『古都』
の白眉で、そこでは「どうしようもない」人々が、というよりは、人間そのものが持つ
「どうしようもなさ」が、同情されることも裁かれることもなく、ただ「歩いてゐる」ので
ある。
 吾妻ひでおが、路上や労働現場や精神病院で出会った人々を描くやりかたにも、安吾と
全く同じ精神が通っている。もちろん吾妻が安吾を真似したとか、そういうことではない。
ここでは個々の人格ではなく、堕落そのものが思考しているのであって、安吾と吾妻が
別々にその地点に達したということに過ぎない。
 で、漫画は何を描きうるのか。その単純化された線が語るのは、人物の「心理」ではない。
ごく単純に、その人物がおおよそどんな容姿をしていて、何を語り、どう行動するか、と
いうことである。全てが外面的に、即物的に語られる。吾妻ひでおは恐るべきことに、大体
1ページほどの簡単な人物紹介で、その人物の「存在」の全体を描き切ってしまうのだ。
そして、この「存在」とは、「どうしようもなさ」と同義である(特に184頁で描かれる
アル中患者の「ミニラ」氏のどうしようもなさには、滑稽も悲惨も通り越して、何か厳粛な
気分になってくるから不思議です。何かを「見てしまった」という感じ)。存在すること
そのものがどうしようもないのだ。
 この本の帯には、大きく「全部実話です(笑)」吾妻、とある。そう、笑いとは、視線が
存在することのどうしようもなさに反射するときに生まれるものではないのか。『失踪日記』
も『古都』も、とにかくムズムズするようなおかしさに溢れている。悲惨なのに楽しい。
笑い、たぶん、これが芸術の人生に対する効能の一つなのだと思う。あはは。

273 :名無しさん@自治スレッドでローカルルール議論中:2006/01/14(土) 03:30:44
>>270-272
さすがに板違いでは?
それを有りにすると漫画の感想を装って荒らされそうな悪寒

274 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2006/01/14(土) 22:51:03
>>273
確かに軽はずみでした。
スンマセン。
ちょっと気をつけます。

275 :ポックス:2006/01/15(日) 09:26:25
『ザ・グリンベレー 世界最強の男達』(柘植久慶著、原書房)

慶応義塾在学中、アルジェリアでフランス外人部隊の格闘技教官として活躍、卒業後は外資系商社マンとして海外で生活中、ラオス政府軍の格闘技教官を経た後
アメリカ陸軍の特殊部隊に加わりインドネシアで戦うという輝かしい経歴をもつ、漫画マスターキートンのモデルとなった紳士トイエバ言わずと知れた柘植久慶である。
私はこの本を読み、いたく感動するとともに、人間本来の生の厳しさを知り、近代戦争の規模の大きさ及び特殊さ、複雑さ、それがゆえの目にも留まらぬ日進月歩的
その他もろもろを含めた精妙な軍事技術とそれに見合う超絶な訓練と兵士たちの真剣な眼差し。私はこの今の今戦争を否定してはいるものの、それは今に壊れそうな平和な国
に生きる小さな虫けらであるからであり、日本以外で住む必要がなく今のところ大規模な戦争が起こる気配があるがゆえであり、それは取りも直さずこの一時間を大事とし
この一秒間のほかには何もないと思うからである。それから上からの命令に絶対服従になるのはこの本にあるように、戦場における追い詰められたときは何よりの暗躍的救済であり
上官がいついかなる時も紳士然としていなければ虫けらどもは灰のごとく散りに散って全滅になる。虫けらはやはり絶対服従に限る。そうでなければロボットに負ける。
今大都会に住む私はこの本によりロボットに勝ったと思い、こぶしを握り締め雄たけびを上げながらサンドバッグに頭突きを連打ししばらく恍惚とし眠りにつく。
起きると今に廃棄処分になる不安に襲われるのは言うまでもない。
そうして、ゲリラ戦の憂鬱が私を襲うのである。熱帯雨林の暗闇に放置された半ば腐りかけた己の身体。京子の思い出。お台場でのデート。
この本にはゲリラ戦術とそこでのサバイバル術について極めて細かく書かれているが、著者はゲリラ戦の真の恐ろしさには触れていない。
著者は考えられる一番の不幸は部下の死と語る。
無論立っていられ意識があるうちは耳や鼻がなくなっても止血すれば軽傷であり後退できない。アメリカでは重傷者、死者、軽傷者の順で護送ヘリに送られることになっている。
ただ状況によるのは言うまでもない。
むしろ現代戦争の極めて



276 :ポックス:2006/01/15(日) 13:27:37
*続き*
悪質化及び人間ロボット化させる政治的精妙の度を延々と伸ばす政府間の策略並びに巡り巡る経済効果乃至文化的淘汰の循環論法並びに上官の名誉が絡みに
絡んだ人間社会戦争の憂鬱を考えるに、大都会という温厚なジャングルに生きる私は今この瞬間ゲリラ戦での敵施設爆撃の任務を遂行できる知識をこの本だけでは蓄え
られないことから、一民間人の妄想を遥かに超える驚き、瞬殺或いは地雷をうっかり踏み下半身を丸ごと失い放置され、お友達だと思われた現地人に愛玩道具などにされ
弄ばれる悲劇をそこに見出さずにはいられない。
軍事技術が高度に発達した現代の戦争においては、民間人にも普段から特殊部隊で受ける最低限の基礎知識を蓄えられる講座を文化コミュニティなどで設けるべきだと感ずる。

また当然兵士も日記を書き綴る。丸っきり、それこそ交通整備のアルバイターの日常よりも平凡な日もあれば、ババ抜きの如何様ごときで仲間同士の口喧嘩に始まりナイフを用いた決闘
に発展し以後険悪なムードになると思いきや翌日その片割れが敵の奇襲攻撃により爆死する日もあり中々面白い。それを冷酷なまでの感性で見る著者の部下への愛情はあまりに奥深い。
以上のことから、その瞬間を生きる生き方には多くの矛盾があるが今にも壊れそうな状態が永遠に続くだろうと確信する。今この瞬間でも愛すべき上官がいたならば自己犠牲でも何でも出来る。
問題は愛すべき上官があるかどうかである。


277 :美香 ◆ESCVVanDCU :2006/01/21(土) 15:08:39
「文章術」(多田道太郎/潮文庫)

→文章の基本は手紙にあると冒頭、著者はいう。
相手に何事かを伝えることが、文章の第一の使命というのがその理由。
それをふまえて良い文章を定義するとこうなる。
良い文章とは、わかりやすく、おもしろい、かつ間違いの少ない文章である。
しきりに納得する。要はそうなのです。何より、読み手のことを考える。
だれだって間違いだらけの、つまらない、難解な文章など読みたくない。
良い文章というものはわかった。が、名文というのはどうなるのか。
著者はいう。名文とは良文と悪文が絶妙にあわさったものだと。
良文と悪文が同一平面上にあるとすると、名文とはそこから離陸したものらしい。
ふーむと考え込む。たしかにそうです。
文豪と呼ばれている作家の文章に、極めて読みにくいものが結構あります。

著者の提唱する良い文章の書き方。
まず文頭で読み手のこころをつかむ。「はてな?」と思わせる。
文末まで読んだらば、その謎(なぞ)が解けているというような文章。
これが良い文章だというのが著者の主張。
こころがけることは、自分がおもしろいと思う文をかくことだそうです。
ふう。いま自分の書いた文章を読み返す。まったくできていません。

*潮文庫版は絶版だけど朝日文庫から復刊されそれは現在も購入可能。
名文家で知られるムー大陸さんにぜひ読んでほしい1冊です。

278 :美香 ◆ESCVVanDCU :2006/01/21(土) 15:59:05
「図解雑学 仏教」(広沢隆之/ナツメ社)*再読

→読むのはもう4度目かな。知識吸収は再読に限ります。
何度も繰り返し1冊の参考書を仕上げる。受験生みたいです。
この「図解雑学 仏教」の長所は、書き手の主観が意図的に排されているところ。
つまりバイアスがかかっていない。
これは同時に欠点にもなる。説明が事実の羅列になり、わかりにくい。
著者の仏教への思い入れを書けないのだから、これは仕方がないと思う。
わたしはこれから処々に分派した仏教を見ていきたい。
そのための前提として、仏教の全体図を今回概観する必要があったのです。

宗教を構成するものとして、教理と実践がある。
我われの大概は宗教を勉強するというと、まず教理を知ろうとする。
学者や文士の書いた概説書を読み、わかったような気になる。
しかし「隣人を愛せ」「布施波羅蜜」を実践するものは少ない。
教理をあたまでわかっても、他人にやさしくはならない。
イエスに祈ろうとはしない。仏典に従い生活を改めようとはしない。
仕方がないのだ。概説書を書く学者や文士からしてそうなのだから。
教理には詳しくとも人格が破綻している宗教学者。
神の愛をエッセイでは説きながら、実は怒りっぽい自分勝手なカトリック作家。
日蓮系統の宗教を信じる某作家がファンサイトで見せる幼児的な言動。
笑っちゃう。一方で、こういう信者がいる。
教理にはうといが実践をしている信者である。
自らの不運に耐え、他人のために尽くしている。
学者や文士のように尊敬はされないが、だれからも愛されている。
こういう信者との出会いが、往々にして入信のきっかけになる
人間がある宗教を信仰するようになる動機はおそらく本ではない。
人間だと思う。だから、本を読んだところで宗教はわからない。
そう自戒しながら、やはり本を読むしかないのです。

279 :美香 ◆ESCVVanDCU :2006/01/21(土) 18:33:04
「真夜中の匂い」(山田太一/大和書房)絶版

→全13回のテレビドラマシナリオ。1984年放送。
山田太一こそ日本を代表するドラマ作家だと思う。
三島由紀夫や安部公房にちっとも負けていない。
どちらも読んだ上での感想です。
山田太一は日本が世界に誇りうる数少ない作家ではないでしょうか。

20年以上もまえのテレビドラマシナリオを読む。
思う。この時代のテレビドラマはかわいそう。
いまの時代のテレビドラマならビデオやDVDに残る。
映画ならいつの時代のものも見ることができる。
小説なら絶版になろうが古本で買うことができる。
しかしこの「真夜中の匂い」は――。

さっきから、うんうん考えている。感想が書けないのです。
読みながら何度となく笑った。泣いた。
ときにはセリフを音読もした。いいドラマだと思う。ただ思う。
ぞっとする。どうしてこんなうまいドラマが書けるのだろう。信じられない。
20年前にはこんな名作がテレビでふつうに放送されていたとは。

280 :美香 ◆ESCVVanDCU :2006/01/21(土) 18:34:50
(つづき)

30代後半になるのに売れない役者をしている祐作が、
女子大生3人組と知り合うことからドラマが始まる。
この祐作が女子大生のひとりに過去を語るシーンがすばらしい。
16年会社の経理を勤めた。女房が浮気をして、まあ逃げられた。
有望な後輩が会社をやめるという。ネパールに行って僧になるという。
わけがわからなかった。人生について考えはじめた。

「小さな会社で、仕事が出来るといわれて、
大半の時間を会社ですりへらして、一人暮しのアパートへ帰ってくる。
なにもない。急に自分をとりまいている現実がたまらなくなった。
息苦しくなった。といって、すぐさま現実から逃げようもない。
ある日、のみ屋で嘘ををついた。小さな嘘だ。
うちに六歳の息子がいる、といった。女房もね。
(中略) それがものすごく気持がよかったんだ。
自分でも半分その気になってね。(中略)ああ、そうか、と思ったね。
人が嘘の話を求めるのは、こういうことなのか。
テレビもラジオもない山の中の子供が、周りの現実だけではつまらなくて、
おじいちゃん、なにかお話をしてと頼むように、自分も、
現実だけではつまらなくて、嘘が欲しくなった。
現実だけでは味気なくてたまらなかった」(P158)

281 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2006/01/24(火) 20:05:50
『其面影』 二葉亭四迷 岩波文庫 1987年改版
『蔵の中・子を貸し屋 他三篇』 宇野浩二 岩波文庫 1951年
『日輪・春は馬車に乗って 他八篇』 横光利一 岩波文庫 1981年

パソコンを修理に出しました。
携帯からだと本のタイトルを打ち込むだけで一苦労でR

282 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2006/01/29(日) 00:30:42
『太宰治全集 3』 太宰治 ちくま文庫 1988年

ここに収められている25篇の短編の中に、かの有名な「走れメロス」が入っている。
この作品といい、『人間失格』といい、世間は、太宰のきらびやかな作品群の中で、
何故ことさらに出来の悪いものだけを選んで崇め奉るのだろうか?
理解に苦しむ。
これは何かの陰謀に違いない。

283 :美香 ◆ESCVVanDCU :2006/02/11(土) 11:27:10
「般若心経二六二文字の宇宙」(ひろさちや/小学館文庫)

→突然、音が気になりはじめた。巡回販売の音楽、廃品回収の拡声器――。
以前からたしかに音に神経質なところはあったが、ここまでではなかった。
まさか焼き芋売りの拡声器までうるさいと感じるようになるとは。
医者にふざけ半分に音が気にならなくなる薬はないかと聞いた。
もちろん「ない」と笑われた。
気になってしょうがないのである。毎日が苦痛の連続になった。
ネットで調べてみる。なんと多くのひとが騒音で悩んでいることか。
わたしのようなケース。それから集合住宅での騒音トラブル。
わかるわかると何度も首肯した。
わたしなんかよりよほどたいへんな状況もいくつか。
引越しに追い込んだり、追い込まれたり。

騒音対策としてはふたつしかない。外部を変えるか、内部を変えるかである。
つまり原因の音を排除するか、音が気にならないような性格になるか。
たいがいは前者の対策をする。音をなくそうとする。
恥ずかしながらわたしも某巡回販売業者の本社に怒鳴り込んだりもした。
たかが音くらいで心が狭いとじぶんでもわかっていた。
だけど、どうにもならないのである。
そこの発する音を聞くだけで一日、何も手につかなくなる。
そんなことをしているうちに、今までは気にならなかった音まで不快に感じるように。
これはやばいとじぶんでも思った。外部を変えることには限界がある。
かといって、どうやって内部を変えるか。
音を気にしないよう努力すればするほど、逆に音が気になってくるという泥沼の悪循環。
調べた限りでは、音が気にならなくなる方法を教えてくれる本はない。
わたしだけではなく、かなり多くの人間が日常的に騒音に悩まされているのにである。

284 :美香 ◆ESCVVanDCU :2006/02/11(土) 11:28:31
(つづき)

困った、困ったと思いながらブックオフへ。
思う。人間っておかしな生き物だと。
あれだけ騒音、騒音と目くじらを立てていたのに、
ブックオフ店内では平気で立ち読みをしている。
けっこうな音量の有線放送と
店員の絶叫に近い「やまびこ」(いらっしゃいませ、こんにちは)に囲まれながら。
一冊の本をぱらぱら読んでいた。この本です。
いたと思った。ここにいたのか。
ひろさちやさんも騒音で悩んだことがあったという。食い入るようにそのページを読んだ。

「(大音響の)移動販売車が去ったあとも一時間くらいは『どうしてくれよう』
など馬鹿な考えを続け、無駄な時間を費やしていた」

大笑いした。この「どうしてくれよう」という気持ちが痛いほどわかる。
じぶんの利益のためだけに大音量を流してこちらの平穏を破るものへの怒り。
ひろさちやさんは、マンションの住民の中に
その移動販売車を利用しているひとが多いのを知る。
そこでこう思い直す。

285 :美香 ◆ESCVVanDCU :2006/02/11(土) 11:29:22
(つづき)

「わたしは騒音公害追放を振りかざしていた自分の狭い心に気づきました。
もちろん移動販売車の騒音は迷惑です。
しかし、わたしもなにかしらで他人に迷惑をかけているはずです。
ですから、わたしも『あのうるさい移動販売車を便利にしている人もいるのだ』
ということを自覚して、耐えるべきだったと気づいたのです。
このとき、わたしの脳裏に『世の中もちつもたれつ』という言葉が浮かびました。
そして仏教が説く『忍辱』(にんにく)とは、いわばこのことだと思いました。
あらためて『世の中もちつもたれつ』であることに気がつくと、
拡声器から流れてくる騒音も違ったものに感じられました。
それまで騒音でイライラしていたのに、わたしはそれ以後
『この騒音にジッと耐えることが自分の修行である。これも仏道修行の一つなのだ』
と許せるようになりました。
そして、実際にこう考えながら、さらに忍辱を実践してみたのです。
すると、騒音そのものは以前と変わらないのですが、あまり気にならなくなり、
ずっと耐えやすくなったのです。
それどころか、拡声器からの音が聞こえるたびにカッとなることもなくなりました」(P112)

いまでもわたしは忍辱ということがあまりよくわかっていない。
しかし、見えてきたのは騒音地獄から脱出できたひとがいるのかという希望。
こんなくだらない悩みが縁でわたしは「般若心経」と出会った。

286 :美香 ◆ESCVVanDCU :2006/02/11(土) 11:31:34
「悩みがみるみる解決する『般若心経』実践法」(ひろさちや/小学館文庫)

→それにしても恥ずかしいタイトルです。あさましいというのか(深いため息)。
いえね、いいんですよ。苦悩を取り除きたい。これが古来から宗教の根本ですから。

「般若心経」。
なんのことだかさっぱり。いままでまったく縁がなかった。
みなさまもそうでは? 簡単に最低限の情報を。
「般若心経」は大乗仏教の代表経典。
数あるお経のなかでもっともポピュラー。
理由は、短いから、わかりやすいから。
大型書店の「般若心経」コーナーへ行ってびっくり。あんなに関連本があるとは。
内容は、すべては「空」(くう)であることを体得すれば、一切の苦悩が消え去る。
これこそが悟りの境地である、というもの。

ひろさちやさんは「空」を説明するのにこの説明を好む。
ここにビールジョッキがある。オシッコを入れる。
後にこのジョッキをきれいに洗い、今度はここにビールを入れる。
あなたはこれを飲めますか?
飲めないでしょう。しかしまえに尿がはいっていたことを知らない新参者なら平気で飲む。
丁寧に洗浄してあるのだから衛生的にはなんら問題はない。
ひろさちやさんは、このたとえから「空」を説明する。
かといって、まえにオシッコが入っていたのを知りながら、
このジョッキでビールを飲めるようになることが「空」の実践だというわけではない。
この場合、ビールを飲めるひとと飲めないひととの相違に注目して「空」を説明する。
飲めるひとはジョッキをきれいだと思っているから飲める。
飲めないひとは反対にジョッキをきたないと思うから飲めない。
しかし、どちらも偏った見方だというのだ。
本来、ビールジョッキにきれいもきたないもない(これが「般若心経」でいう「不垢不浄」)。
そのジョッキをきれいと思うのも、きたないと思うのも人間の心である。
そのこだわりを捨てることが「空」の実践だという。
「空」とはつまりレッテルをはらないこと。

287 :美香 ◆ESCVVanDCU :2006/02/11(土) 11:32:41
(つづき)

うーむとうなるしかない。
難解な仏教思想をここまで身近なたとえで説明するとは。実にわかりやすい。
仏典をみごとビジネス書、自己啓発本の類にまで引きずりおろしている。
これは是か非か。
この「空」の考え方でいくと、たとえばわたしが悩んでいる騒音問題はこうなる。
音自体は「空」である。うるさい音も、心地よい音も本来はない。
聞くものが判断するだけである。
だから音に騒音というレッテルをはるのをやめ、自然体で構えていればいい。
わかる、わかります、あたまでは。
しかし、うるさいものはうるさいという声も心の奥底から……。
わたしにできること。とりあえず毎日数回、この「般若心経」を読誦しています。
いつか「空」を理解できる日、騒音が気にならなくなる日が来るのか――。
「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空♪」

ひろさちやさんは大乗仏教と小乗仏教についてこう書いていた。
小乗仏教は釈迦が大学で教えたもの。
大乗仏教は釈迦がカルチャースクールで話したこと。
大学での講義録しか後世に残らなかったけれども、
釈迦の教えは学内でしか通用しないようなそんな狭いものではない。
あるいはこうも。
入院患者を対象にしたのが小乗仏教。
通院患者をも治療しようとしたのが大乗仏教。
だから大乗仏教は小乗の教えよりすぐれていると。
うーん、そう言われたらそうなんですけれども、まだどこかにわだかまりが……。

288 :名無しさん@自治スレッドでローカルルール議論中:2006/02/11(土) 22:08:04
じぶんはセックス経験ないから偉いと思っているのもお笑い草。
単純に
男に見向きもされない分際のくせに聖女気取りなんだからこのキチガイ女。

あとがきでは大笑いした。笑いがとまらなくて困った。引用。
「ほんと〜につまらぬものは人生。なにをやったってむだですよ。
失敗したのも成功したのもあなたのせいじゃない。
もうやめませんか自己啓発。生まれてきた条件・環境こそすべて。」


人生、悟っちゃたようなことを書いているわりには、いつまで最期を引き延ばすんですかね!


289 :名無しさん@自治スレッドでローカルルール議論中:2006/02/11(土) 22:10:17
>>288

>「ほんと〜につまらぬものは人生。なにをやったってむだですよ。
>失敗したのも成功したのもあなたのせいじゃない。
>もうやめませんか自己啓発。生まれてきた条件・環境こそすべて。」
>人生、悟っちゃたようなことを書いているわりには、いつまで最期を引き延ばすんですかね!

ほんと、悟っちゃったようなポーズで下らないこといってるヒマがあったら、
他人に迷惑かけないでほしい。

自分が嫌われる原因が、 「生まれてきた条件・環境こそすべて。」だと思うんなら、
それでいいから、 ひっそり自分の両親とかを逆恨みしながら、人に迷惑かけずにいてほしい。

290 :名無しさん@自治スレッドでローカルルール議論中:2006/02/11(土) 22:11:38
「かつて社会的拘束をはずしたら人間はどうなるのかという実験は、ゴールディング
「蝿の王」のように無人島を舞台にしてましたが今、ネット上でそれが進行してる印
象ですね。しばしば絶望的状況になってますし」

平野啓一郎の言うとおりだな。
「何の努力もいらないし、ほんの一時の出来事が、人生全てを規定する」か。

291 :名無しさん@自治スレッドでローカルルール議論中:2006/02/11(土) 22:17:29
社会や周囲に憎悪を燃やす人生の敗残者って、
空虚な人間の存在を描いた文学のネタとして目につきやすいところがある。

で、当事者たる人生敗残者は、いろんな作家の作品の中に散りばめられた
ある種の人物像に自己を拡大投影しちゃって、
「自分こそは文学をやるにふさわしい人間だ」
「人生の敗者が王者になれるのは、文学でR」
といった自己肯定のための誇大妄想を抱くようになる。

で、なんか崇高な使命感のようなものにしびれちゃって、
「作家志望」とかネットで名乗り出すようになるのが次の段階。
実際は、何ひとつ作家になるための具体的な訓練もせず、
自分のファンタジーが壊れないよう、現実世界から隔絶された場所に引きこもって、
自分を受け入れない世界へ向けて、呪詛の言葉を発するようになる。

「作家修行だから」「これが文学だから」が、うっとりと自己肯定する魔法の呪文。

…結局は、その時代々々の作家に、文学のネタとして消費され、その使命を終える。


292 :美香 ◆ESCVVanDCU :2006/02/12(日) 18:22:31
「般若心経」(金岡秀友/講談社文庫)

→ひろさちやさんの本だけで終わってしまうのは「般若心経」に失礼だから……。
と書くのは、ひろさちやさんにものすごく失礼なのだけど(笑)、
ちょっとは学問的に「般若心経」をみてみようと手に取ったのがこれ。
うーん、こういうのは苦手だな。
宗教というのは、一般社会とは異なるものさしだと思う。
金持ちがいて、貧乏人がいるのが社会。
東大卒がいて、中卒がいるのが社会。
だけど、いざ宗教の枠内に入ればそのような格差は無意味になる。
それが宗教ではないかと思うのだけれども。

この本でこの学者さんが書いているのは、これだけじぶんがわかったということ。
文章中、一貫しているのは、卑屈なのか謙虚なのか、
先人にはまだまだ及ばぬとの低姿勢。
学者一般にみられるこの態度が、なんだかなと思う。
それは「般若心経」の理解度が採点可能だとする思想。
学生にレポートをださせる。「優」「良」「可」「不可」と点数をつける。
それとおなじように「般若心経」を読むひとの優劣、上下を比較できると考えている。
それでは一般社会となんら変わりがないと思ってしまう。
「部長に昇進した」と「般若心経がここまでわかった」のどこがちがうのか。
ひと言でいえば、しゃらくさいのである。
わかった、わかんないをいうのなら、60年前、
広島長崎で被爆したひとがいちばんわかっているのです。
「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」
かれらがどんなものをみたのか、わたしには想像もつきません。

293 :美香 ◆ESCVVanDCU :2006/02/12(日) 18:24:56
「『般若心経』を読む」(水上勉/PHP文庫)

→文士はどのように「般若心経」を読むのか。
水上勉は一休和尚と正眼国師の「般若心経」解釈を参考に自らの思いを綴(つづ)る。
職業作家の手による入門書だから、わかりやすいかと思っていたら予想は大外れ。
書き手がぶらぶら揺れているから、読むほうとしても落ち着かない。
「般若心経」へのスタンスが定まっていないように見受けられる。
なんとかこらえながら終盤にたどりつくと、ようやくその理由がわかる。

身震いがした。
文士というものは空恐ろしいというほかない。
ひろさちやは「人生のヒント」を求めて「般若心経」に頼る。
学者は研究対象として「般若心経」を観察する。
水上勉はおのれの苦(生存)を見据えることから「般若心経」にいどみかかる。
有名なお経だからといって「ありがたや、ありがたや」とひれ伏すことがない。
それどころか、――いや、即断は避ける。
水上勉の次女は下半身麻痺の障害をもって生まれた。
生まれたときから、一生歩けないことが宿命づけられていた。
誕生直後、背中を切開する大手術を受けなければならなかった娘を思い、
水上勉は以下のごとく述べる。

294 :美香 ◆ESCVVanDCU :2006/02/12(日) 18:26:01
(つづき)

「わが娘は、その(=手術の)痛苦耐えて生きた。
そして、その障害苦こそ、彼女の生誕直後の人生であった。この世への出発だった。
そのことを考えると、心経のこの高所から割りきって、人生そのものを空無なもの、
もともとなきものと断じる分別には、救われようもない思いを感じないではおれない。
お前は、なんにもわかっていないな、といわれても、そう思うのだからしかたない。
悟っても、悟らないでも、痛苦は痛苦である。
切り裂かれれば、血もとび出る、死にたいほど痛いではないか。
それが人生なのだ。それがこの世を生きるということなのだ。
どこに『空』ののどかな、痛みも悩みもない世界がわがまわりにのぞいていようか。
あるなら見せてくれ」(P156)

人間は不平等だ。憲法や菩薩がいうように人間が平等なものか。
生まれたときから人間は差別をされる。どこに生まれるかで人生が左右する。
物語が生まれるゆえんである。
そんな明白な事実を菩薩はわかっておられないのかと、この物語作家は憤慨する。

「私にとって、般若心経は『乃至無老死、亦無老死尽、無苦集滅道』
にいたってまこと冷たいお経だなという気がしてくる。
さよう、色身の心底からいえば、心経の何と冷静であることよ。
クールであることよ」(P165)

おそらくどの「般若心経」入門書もこうすればわかると教えるものでしょう。
しかし水上勉はわからないという。「般若心経」がわからない。わかってたまるものか。
文士の生きかたである。

295 :美香 ◆ESCVVanDCU :2006/02/13(月) 21:56:56
「般若心経講義」(高神覚昇/角川文庫)

→まえに読んだ学者さんの本に教えられて読んだ本。
「般若心経」概説書の古典ともいうべき有名なものらしい。
ならせっかくだからと物見遊山キブンで読了する。
著者いわく、「般若心経」は「因縁」に尽きる。
この因縁ということがわかれば、「般若心経」の世界を生きることになるのだとか。

因縁――。
現在、まわりに見えているものはすべて「果」である。
「果」には「因」がなければならない。これが「因果」思想である。
ここで著者が強調するのが「縁」。「縁」を忘れてはならないという。
「因」が「果」になるとき、それはかならず「縁」によっているのである。
「因」と「縁」が「和合」(わごう)してはじめて「果」になる。
この理(ことわり)を別の表現でいうと「万物流転」「相対依存」となる。
人間が生まれてくるのは父と母が「縁」よって会ったがため。
その人間が死ぬのは、たまさかの僥倖(ぎょうこう)によって
成立していた「縁」が消えたがため。かように万物は流転する。
「因」と「縁」の関係は人知のあずかりしれぬ複雑なものである。
風が吹くと桶屋が儲かる。すべての関係は「因縁」による相対依存である。
「般若心経」とは仏教の精髄を説いたお経。
とすると、仏教の真諦は「因縁」。すなわち「万物流転」「相対依存」とこうなる。
高神覚昇さん(それにしてもすごい名前)は以上のごとく悟っちゃったわけです。

296 :美香 ◆ESCVVanDCU :2006/02/13(月) 21:57:43
(つづき)

最近、持病の喘息(ぜんそく)が軽くなった。
思い当たるのは、この「般若心経」しかない。
毎日、「般若心経」を読誦するようになったこと。
快適に街を歩く。鼻歌をうたいたくなる。
「あきらっめよ〜、あきらっめよ〜、すべてをあきらっめよ〜♪」
作詞作曲ともにわたしです(笑)。
このごろやけに「あきらめる」という動詞が脳裏に浮かぶ。
「相対依存」なら、これも何か関係しているのでしょうか。
凡夫のわたしにはわからないことばかりです。

297 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2006/02/16(木) 02:04:56
『ふらんす物語』 永井荷風 新潮文庫 昭和43年改版

 長らく荷風は読まず嫌いだった。いわくキザで身勝手な感傷家。
 モテない貧乏人のヒガミもあったろう。ヒガミというか、何だかこういうスマートで
ダンディでデカダンな人は理解不能というか、正直ちょっと怖いのである。
 その点同じデカダンでも、安吾や太宰はスボンと靴下の間からちょっとスネ毛が
覗けるようで安心できる。その安吾がどっかで荷風を全否定していて、それを
鵜呑みにした私は、安心して荷風を無視していたのである。
 しかし、本書を読み終えた私は今、他愛もなく「一生ついていきます!荷風先生!」
などと口走っているのだから、人の心は頼りないものである。
 素晴らしいです。『ふらんす物語』。荷風は、明治の父権的風土の中で花開いた、
稀有の独身的存在とは言えないか。例えば鴎外の「舞姫」と荷風の「雲」とを比べて
みればよい。両者ともに女性に対する専横的で残酷な振る舞いが主題になっているが、
その残酷さの質がまるで違う。

 「恋の成功とは此(かく)のごときものか、吾々の若き血が、嘗て羨み、望み、
 悶えたる、空想の実現とは此の如きものか。吾々が、その作りし空想の影に
 惑わさるる事も又甚だしからずや。われにして若し彼女に死せよと云わば、
 彼女は喜んで死するやも計られず。されどかくまでにして、自己の威力について
 確信するも、又何の興味かある。空想、成功の実現は、失敗の恨みより、更に
 更に大なる悲哀と落胆とを感ぜずばあらず………。」(「雲」より。145頁)
 
 成功などした覚えがない私が、「うんうん、そんなもんだよなあ」などと通勤
ラッシュの電車の中で相槌を打っているのだから、文学は恐ろしい。人の心は
信用できない。自分のそれさえ。

 「雲」の他に強い印象を受けた短編に、小文集「橡の落葉」中の「墓詣」がある。
これはトリュフォーの映画そのものです。トリュフォーの映画が、彼がデビューする
半世紀以上前に、一人の東洋人によって作られてしまっていたことを、一体どう解釈
すればいいのだろう。

298 :美香 ◆ESCVVanDCU :2006/02/16(木) 21:21:51
「森田療法入門」(長谷川和夫/サンマーク文庫)

→たまらなく恥ずかしい。いまパソコンのまえので身もだえしている。
森田療法ですぞ。それも安易な入門書を。あ゛〜あ゛〜あ゛〜(うめきである)。
こころが弱いひとって傍目から見ると笑えませんか。
笑ってください。わたしもじぶんを笑っていますから。自嘲であります。

森田療法とは、大正時代に精神科医の森田正馬(まさたけ)が創始した神経症の治療法。
日本独自の画期的な治療理論で、
それまでは治癒不可能とされてきた神経症患者の多くを立ち直らせた。
そもそも神経症とは何か。英語でいうならノイローゼ。
たとえば――。
何度も手を洗わないと気が済まず、家事がおろそかになる。
カギをかけたかが気になって何度も確認するため、時間通りに目的地に行けない。
じぶんが悪臭をはなっているような気がして、他人と会うことができない。
分裂病とのちがいは病識があること。
じぶんがおかしいことがわかっているのにどうにもならないのが神経症患者。
笑えます。神経症患者を観察するのは、へたなお笑いなどよりよほど笑える。
しかし家族や本人にしてみたらたまらない。
喜劇などと笑おうものなら殴られる。大まじめの悲劇である。

森田療法のキーワードは「あるがまま」。
西欧のフロイト理論が不安の根絶を目指すのとは対照的に、
森田療法では不安をあるがままに受け入れることを提唱する。
不安を異常とみなし治療を試みるのがフロイト理論。
一方、不安は人間ならだれしも持つものと、不安をそのままにしておくのが森田療法。
たとえば――。
不衛生を忌(い)み、清潔を心がけるのは人間なら皆ある傾向である。
だれだって空き巣に入られたくはない。カギをかけたか気になる気持ちは皆ある。
ニンニク料理を食べた後にじぶんの臭いが気にならないのは、かえって無神経である。
不安は、人間ならだれもが持つものである。だから不安はあるがままにしておく。

299 :美香 ◆ESCVVanDCU :2006/02/16(木) 21:22:48
(つづき)

「知識がいくらあっても神経質症は治りません。それどころか、他の病気とちがって、
なまじ知識があるとかえって治りにくいという特徴をもっているのです」(P117)

森田療法は実践を重視する。
この実践を、森田療法では「外形をととのえる」「目的本位」「不安常住」などという。
(こういう専門用語が新興宗教みたいで、嫌うひとは徹底的に嫌悪するでしょうね)
なに、むずかしいことではない。要はあるがままを実践せよということである。
たとえば――。
手が汚いんじゃないかという不安を持ちながらも、きちんと家事を行なう。
施錠を忘れたのではないかという不安をあるがままにして、約束の時間を守る。
みずからの体臭を気にしながらも、ひとと会うようにつとめる。
実践を繰り返す。失敗もすれば、成功することもあるでしょう。
この成功体験を重ねることで、自信を蓄積していこうというのである。
したがって森田療法には完全な治癒というものがない。
不安がまったくない人間など、どこにもいないからである。

森田療法には、哀しい笑いがよく似合う。
想像してみてください。
こころの弱い人間が喜劇的な不安に翻弄されながらも歯を食いしばって、
「あるがまま」「目的本位」「不安常住」と一心に念じることで生きている姿を。
もはや笑うしかないではありませんか。それは嘲笑ではない。いたわりの笑いです。

300 :美香 ◆ESCVVanDCU :2006/02/16(木) 21:24:20
「森田式精神健康法」(長谷川洋三/知的生きかた文庫)

→ひとを笑っている場合ではありません。わたしは笑われるがわにいるのです。
まえにも書いたとおり音が気になってしかたがない。騒音が憎らしくてたまらない。
拡声器なんて地球上からなくなればいいと本気で思っている。
大音量の音楽を流しながら押し売りに来る移動販売車に殺意をおぼえる。
しかしいちいち外に出て「うるさい、来るな」と言っていたらそれだけで疲れてしまう。
今回、あわれにも森田療法にすがりついたゆえんです。

どうすれば音が気にならなくなるか?
この問いに森田療法はこう答える。
音が気にならなくなるのは無理です。だれだって音がなれば気になります。
だからこそ交通事故が防げるのであり(クラクション)、
朝は決まった時間に起きることができる(目覚まし時計)。
音が気になるのは異常でもなんでもないのです。
まともな聴力のある人間なら当たり前のこと。
問題なのは、騒音を聞くと怒りがこみあげて何もできなくなってしまうことです。
答えが出ました。
騒音が来ても行為をやめなければいいのです。
読書をしていたのなら、そのまま本を読み続ける。
何か書きものをしていたのなら、それを継続する。
食事中でも料理中でも同様。
騒音をあるがままに受容して、なすべきことを実践すればよろしい。
ときには成功し、またべつのときには失敗するかもしれない。
だけど、すべきことは実践です。あるがままを実践しなさい。
森田療法はこう教える。

301 :美香 ◆ESCVVanDCU :2006/02/16(木) 21:25:35
(つづき)

この答えを得たときには大発見をしたと思った。
ノーベル賞ものの発見ではないかと。
世に騒音に悩まされているひとは無数にいる。
よし、わたしが悩めるものに救いの福音をもたらしてやるう〜、なんて(苦笑)。
でも、まあ、そう甘くはないわけです。
この発見をしたあとも、やはり騒音には不快感を感じる。
1時間続いたときには、うるさいと言いに行ってしまった。
あるがまま、あるがまま、と思ってはいるのですが……。
これからも実践あるのみで、がんばっていくほかありません。

著者の長谷川洋三は自助グループ「生活の発見会」の名誉会長。
この「生活の発見会」がなんとも見苦しい。
困っている患者に日記を提出させ、それをえらい会員が添削して返送するのだとか。
こうすることで生活のゆがみをただし、人間を成長させるという。
その引用がこの本にあるのだが、もう失笑というかなんというのか。
気持ち悪いことこの上ないのです。
その日記を読んでいて気づいたこと。
神経症を病んでいるときの日記はおもしろくてたまらない。
治ってしまうとほんとうにつまらないものになる。
凡庸で、ありきたりで、安っぽい人生観の吐露になる。
かれは森田療法で神経症が治ったと感動し、
この会で治療者のがわにまわることもあるでしょう。
こうしてつまらない人間が大量生産されていくと思うとやりきれない。
しかし患者としては治ればなんでもいいのだから、そう考えると――。

302 :美香 ◆ESCVVanDCU :2006/02/16(木) 21:27:45
「森田療法」(岩井寛/講談社現代新書)

→森田療法を一行で説明せよと言われたらこうなる。
「石橋を渡ろう!」
石橋をたたいてばかりで、渡らないのが神経症患者。
「あるがまま」を念仏のように唱えながらでも、なんとか向こう岸に到達しましょう。
石橋を渡りましょう。これが森田療法の教えです。

このたび音恐怖症(?)になって、神経症患者のしんどさをリアルに実感した。
たかが音じゃないかとあたまではわかっているのです。
そのくせ、いつ音が来るかと常に緊張している。
音がいざ来ると、びくっとして、そのあと何も手につかなくなってしまう。
音が気になって、気になって、しかたがない。
移動販売車の流すメロディがいつまでもあたまから離れない。
もうこれは病気でしょう。
じぶんがおかしいことはわかっているのにどうにもならない。
「あるがまま」と唱えることのみじめさは承知している。
だけど、唱えるしかない。笑いながら「あるがまま」と唱える。

この新書から気になったエピソードを。
中年女性の神経症患者。トゲ恐怖症とでもいうのか。
座るところにトゲが刺さっているのではと気になってしかたがない。
そのため夫と子どもに何もしてやることができない。一日中、トゲの心配ばかり。
わかると言ったら傲慢かもしれない。地獄の生活であったことは想像がつく。
ある日、彼女はじぶんが末期の癌(がん)であることを偶然から知る。
医者も家族も隠していたのだが、ひょんなことから知ってしまう。
その瞬間、二十数年間(!)ものあいだ、彼女を悩ませてきた神経症が治ったという。
トゲが気にならなくなったという。
彼女は言う。はじめてじぶんの愚かさを知った。
これからは余命を家族に感謝しながら生きていきたい。
いままでしてやれなかった家事やなにやらをぜんぶしたい。
神経症のせいで迷惑をかけたぶんを挽回したい。――人間について考えさせられます。

303 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2006/03/02(木) 23:00:37
まだ寒いのに、閑古鳥が鳴いてますな。
たまにはageてもバチはあたらないでしょう。

『太宰治全集 4』 ちくま文庫 1988年
(長編『新ハムレット』他、「ろまん燈籠」「東京八景」等、短編12編)

太宰の最初の書き下ろし長編が、シェイクスピアの翻案物だというのはちょっと面白い。
しかも巻末の解題の資料によれば、この作品にかける太宰の意気込みは並々ならぬ
ものだったらしい。
これから、久々にオリジナルの『ハムレット』を読み返し、ついでに積読になっている
大岡昇平の『ハムレット日記』なぞも読んでから、この作品をもう一度読でみるつもり。

 とりあえず、面白かったハムレットの台詞より。

「(…)どだい僕には、どんな人が偉いんだか、どんな人が悪いんだかその区別さえ、
はっきりしない。淋しい顔をしている人が、なんだか偉そうに見えて仕様が無い。
ああ、可哀想だ。人間が可哀想だ。僕も、ホレーショーも可哀想。ポローニヤスも、
オフィリヤも、叔父さんもお母さんも、みんな、みんな可哀想だ。僕には、昔から、
軽蔑感も憎悪も、怒りも嫉妬も何も無かった。人の真似をして、憎むの軽蔑するのと
騒ぎ立てていただけなんだ。実感としては、何もわからない。人を憎むとは、どういう
気持のものか、人を軽蔑する、嫉妬するとは、どんな感じか、何もわからない。
ただ一つ、僕が実感として、此の胸が浪打つほどによくわかる情緒は、おう可哀想と
いう思いだけだ。僕は、この感情一つだけで、二十三年間を生きて来たんだ。他には
何もわからない。(…)」(青空文庫よりコピー)

 これでいいのかハムレットw

304 :吾輩は名無しである:2006/03/03(金) 05:22:42
.

305 :吾輩は名無しである:2006/03/03(金) 05:23:51

      / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
    /=========(◎)==== \
   /        軍医       ヽ 申し訳ないが
    l :::::::::.                 |
   ∂::::::::::  (●)     (●)  ∂ 馬鹿につける薬がみつからん…
   |:::::::::::::::::   \_■_/     |
    ヽ:::::::::::::::::::..  \/     ノ


306 :吾輩は名無しである:2006/03/03(金) 05:24:51

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307 :吾輩は名無しである:2006/03/03(金) 05:25:48
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308 :吾輩は名無しである:2006/03/03(金) 05:27:49
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309 :吾輩は名無しである:2006/03/03(金) 05:28:49
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310 :吾輩は名無しである:2006/03/03(金) 05:29:46
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311 :吾輩は名無しである:2006/03/03(金) 05:30:57
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   |             |          
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   {             }
   | `r=e=ュ )-( r=e=ッ ' i
  (`{  "''''" i  i"''''" ´ }'´)
  );},    ,   、     、{ (
  ( |   r`'ーn-''゙ヽ    | )  
  `'ヽ   r='='=ュ    /`'   だから呪文って言うのは言葉じゃなくて
     \,,,_) ゙''''''''" (_,,,/   
       \,,,___,,,/       心の中で唱えるとね女にもてるんだよ。

312 :吾輩は名無しである:2006/03/03(金) 05:32:10
_, ,_
('A`)
ノヽノヽ =3 パスゥ
  くく


313 :吾輩は名無しである:2006/03/03(金) 05:34:21

         _ ∩
      ⊂/  ノ ) /
      /   /ノV   イナバウアー 
≡≡≡≡し'⌒∪    \
     '┴┴ ┴┴'
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

,

314 :吾輩は名無しである:2006/03/03(金) 05:36:20


315 :吾輩は名無しである:2006/03/03(金) 08:14:20
この流れならいえる
このスレはひどい

316 :吾輩は名無しである:2006/03/13(月) 08:03:57
>翌日、原一男さんのところへ相談に行った。すこしまえに大学は卒業していた。
>大隈講堂のまえで人目もはばからず泣きながら母のことを話した。

うそをつくのはおやめなさい。
あなたは大学受験に失敗して引きこもりを続けているだけでしょう。
医者に診てもらいなさい。あなたは病気です。

700 :美香 ◆FE5qBZxQnw :04/04/13 08:42
「踏み越えるキャメラ」(原一男/フィルムアート社)*再読
→原一男は「ゆきゆきて、神軍」「全身小説家」などで知られている映画監督。
副題に「わが方法、アクションドキュメンタリー」とある。原一男はいう。
表現をするとは何か。私たちが生きている日常。この日常というのは監獄のようなもので、
常に私たちを縛りつける、不自由にする。表現とはそこから解放されたい、
自由になりたいという欲望に他ならない。だからキャメラをもったと原一男はいう。
キャメラをまわす。すると日常が変質する。ひとはキャメラのまえで演技をするからである。
かっこよく見られたいという思いはもちろん。お墓のまえでは泣き、不正には怒る。
ふだんはなあなあで済ませていたものに真っ向から向き合うことをキャメラから求められる。
だれにだって「かくありたい」という自分がある。キャメラがその欲望を刺激するわけである。
したがってかれはキャメラがなかったらできないようなことまでやってしまう。
すると劇的なシーンが生まれる、それを原一男は撮りたいのである。
過激なものを、劇的なものを、なまの人間の葛藤を原一男は撮りたいのである。
表現は社会に向ける刃(やいば)と考えればこそである。
そのときキャメラは武器となる――。

この本を読んだのは何回目だろう。赤線や書き込みがたくさんある。

>表現におけるわたしのお師匠さん(というのか?)は原一男さんかもしれない。
>といってもむかし数日間の映画セミナーのようなものに参加しただけなんだけれども。

317 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2006/03/14(火) 21:03:08
『谷間の百合』 バルザック 石井リ一 訳 昭和48年

 相容れぬ二者の相克を描く、というバルザックお得意の手法は、本書でも
肉体対精神という対立の中に余すことなく示される。
 一言でいって、本書は「エロい純愛小説」である。きわどい描写があるのではない。
 不幸な結婚生活に苦しんでいる美貌の伯爵夫人と、やはり不幸な出生の影を背負う
純粋な若者が落ちて行く道ならぬ恋は、夫人の堅固な貞操観念に守られ、最後まで
精神的なものに止まる。しかし、神ならぬ人間が、地上で無理なくそんな恋を貫徹
できようはずもなく、青年は別の人妻と肉体の恋に溺れて行き、それを知った
伯爵夫人は嫉妬と抑圧された欲望に身も心も苛まれて、ついには命を奪われて
しまうのである。
 バルザック的悲喜劇を体現する人物とテーマは数あれど、対立や矛盾の、死に至る
までの相克を描くのに、この「貞操」というテーマは特権的な位置を占めているように
思われる。興味深いのは、バルザックが結局は、この観念に対して、価値判断を
放棄しているように思えることだ。バルザックの小説において、貞操を最後まで
つらぬく女性は、必ずといっていいほど悲劇的な結末を迎えることになる(例えば
『従妹ベット』のユロ夫人がそれである)。しかしバルザックは、貞操は不健康な偽善
であるなどとは決して唱えはしない。もちろん貞操万歳とも言わない。それは良し悪しを
超えて、とにかく「そこにある」ものである。それは、バルザックの小説世界を作動させる
情け容赦もない歯車であって、高貴な魂を(それが高貴であればあるほどなお残酷に)
バリバリと噛み砕いてゆくのである。バルザックはそれを、一応はキリスト教的な
受難の過程として描き出している。伯爵夫人は臨終の場になって信仰と己の尊厳を
取り戻し、神々しく死んで行く。しかし、私にはこの結末は、時代がバルザックに
強いたアリバイ作りのように思われる。おそらく、バルザックの本音は、伯爵夫人が
青年にあてた手紙の中に見られる、以下の部分に集約されているのではないか。

318 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2006/03/14(火) 21:05:55
(つづき)

「…私は社会が神さまから由来するものか、人間がつくりだしたものかは知りません。
それがどちらの方にむかって動いているのかもわかりません。ただ私の目にたしかな
ことは、社会が存在しているという事実です。社会からひとりはなれて暮すのをやめ、
社会をうけ入れようとおきめになったら、その日からあなたは社会のよって立つ
種々の条件を、すべてそのままよきものとお考えになることが必要です。…」(p195)

 この身も蓋もない認識こそ、バルザックの人間喜劇の底流を成しているのではないか。
神とは社会である。しかしこの新しい神は盲目で、自らがどこにたどり着くかも知らぬ
まま、ただひたすら自らの王国の民に暴虐を強いるのである。
 もちろん、ここにはまぎれもない愉悦が、快楽がある。バルザックもその読者も、
自らの宗教的=社会的信条と欲望の間に立って煩悶する伯爵夫人を、青年の
欲望の目を借りて、ムラムラしながら見守ることになるからだ。夢見るような風景描写
をはじめとして、この書物全体のかもしだす雰囲気は、どこまでも清烈でありながら、
とにかく激しくエロいです。
 この「善悪の彼岸」にある快楽と悲劇をあまさず楽しむ我々は、では神の視座に
いるのか?何も支配せず、命令せず、「見えざる手を持たず、ただ「目」と化した神に?
 バルザックの小説においては、「人間的努力」によって、事態が解決することがない。
悲劇や葛藤は、登場人物の死によってしか解決(ないし中断)されないのである。
 これはバルザックの「宗教」なのだろうか。悲劇が救済の対象ではなく、悦楽の
対象であり、その悦楽こそが救済であるような世界。これはあんまりキリスト教的な
世界観ではないように思える。さらに人間喜劇を読まねばならない。

319 :吾輩は名無しである:2006/03/22(水) 07:53:01
よって、いくら精神医学を学ぼうが、あの悲劇は解明できない。
わたしのライフワークはふたつの「なぜ」を解き明かすことである。
なぜが眼前で投身自殺? なぜ日記にわたしへの不満を?
なぜ原一男のせいなのか? なぜ2ちゃんねるがわたしを追い出す? 
おそらく徒労に終わろうことはわかっている。それでも――。
精神病ってなんだろう。それを知るための旅にいまでている。どこに行き着くのか。

>797 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/12/12(月) 23:40:47
>誤解です、関場先生……orz
>
>798 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/12/12(月) 23:41:40
>関場ってキチガイはおもしろい(きゃはは♪
>
>799 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/12/12(月) 23:42:15
>>>798
>偽者?

320 :名無し物書き@推敲中?:2006/03/22(水) 13:00:36
社会学辞典

321 :吾輩は名無しである:2006/03/22(水) 19:30:16
豚が電波垂れ流しの上に、
メンヘル女に突撃しちゃってるのに、

悠長に、美香に捧げるぼくの好きな映画ベスト5とか、
嬉々として発表しちゃってんだな。隔離施設の馬鹿ども。

軍団(といっても、もはやオムツ&ワンワンプレイ
フェチの変態2匹のみだがw)きもいよね・・・
つーか、童貞だよね、怪物的童貞。

怪物童貞だけど、きちがいデブスで男性経験無しの美香なら
なんとかなると思い込んでるとこが、またキモイ


322 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2006/03/22(水) 22:13:02
『ゼーロン・淡雪 他十一篇』 牧野信一 1990 岩波文庫

今まで牧野信一については、坂口安吾の年長の友人、若くして自殺、程度の
知識しかなかった。
手元の文庫版安吾全集をめくってみる。
『牧野さんの祭典によせて』と題された短文では…

「私の考へ方が間違つてゐるのかも知れないが、私には牧野さんの死が
ちつとも暗く見えないし、まして悲痛にも見えない。却つて明るいのである。
 牧野さんの人生は彼の夢で、彼は文学にそして夢に生きてゐた。夢が人生を
殺したのである。殺した方が牧野さんで、殺された人生の方には却つて
牧野さんがなかつた。牧野さんの自殺は牧野さんの文学の祭典だ。私はさう
考へていいと思つてゐる。(中略)

 牧野さんは日常自殺や死に就て語ることがなかつた。私達がそれに就て
語ると、あらはに不興な顔をしたり、軽蔑するやうな顔付をした。牧野さんに
とつて生きることは難く、死は余りに容易であつたのだ。死には一文の値打も
なく語る値打もなかつたのだらう。(中略)

 彼の死ほど物欲しさうでない死はない。死ぬことは、彼にはどうでもいい
ことだつた。すべてはただ生きることに尽されてゐた。彼の生は「死」の影が
すこしも隠されてゐない明るさのために、あまりにも激しく死に裏打されて
ゐた。生きることはただ生きることそれだけであるために、彼の生は却つて
死にみいられてゐた。だから、彼の死は自然で、すこしも劇的でなく、
芝居気がなく、物欲しさうでないのだ。即ち純粋な魂が生きつづけた。死をも
尚生きつづけた。さうではないか、牧野さん。生きるために自殺をすると
いふのは多くの自殺がさうであるが、牧野さんは自殺を生きつづけたと
言ふべきである。彼は生きつづけてしまつたのだ。明るい自殺よ。彼の自殺は
祭典であつた。いざ友よ、ただ飲まんかな。唄はんかな。愛する詩人の祭典の
ために」(引用は「青空文庫」より)

323 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2006/03/22(水) 22:15:08
(つづき)
 相も変らぬ安吾節である。
 ここには牧野信一がいるというよりは、安吾その人がいるのであって、
安吾のそのあまりの明るさのために、牧野の肖像は、その陰影をくまなく光で
塗りつぶされてしまっている。真っ白だ。
 ずっと以前、その明るさを頼りに生きていた一時期があった。安吾が全てで、
彼の目で世の中を見ようとし、また生きようとも思った(この「思った」と
いうのがミソであるw)。しかしそんなことは到底ムリなわけで、今もその
ころと相変わらず、灰色の自分をもてあましつづけている。そして、その
灰色の自分が初めて牧野を読んだのである。

 面白い。特に「鬼の門」「泉岳寺附近」「天狗洞食客記」あたり。この
面白さを、仮に「光学的自己批判」とでも呼んでみる。いわゆる私小説作家
一般に共通のことであるが、この作家も、自己の人知れぬ暗黒面への批評眼と
いうか暴露癖が顕著である。しかし、この時期の牧野の作品には、そうした
視点にありがちな、湿った感傷や嘆きが全くまとわりついていない。作者が
自己を見つめるのは、「自意識」などという模糊としていやらしい装置では
なく、鏡やスクリーンといった光学機器を通してである。
 もっともここに現れる鏡は、事物を愚直に、官僚的に反射するそれではなく、
あの、一昔前のどたばた喜劇に必須の、どこか胡散臭い鏡である。鏡は、
そこに映されている人物の動きを忠実に真似ていると思いきや、ぐにゃっと
ゆがんだり、人物が鏡から目をそらした瞬間に舌を出したり、動作の左右を
間違えたり、鏡面からにゅっと足を突き出して、「オリジナル」の尻を
蹴飛ばしたりするのである。「鬼の門」の主人公と強欲の酒屋の主人の関係、
あるいは「天狗洞食客記」の主人公と天狗洞の主との関係は、正にそれである。

324 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2006/03/22(水) 22:17:07
(つづき)
 小説=フィクションの面白さとは、結局そうしたものではないか。つまらぬ
現実との、微細にしてFATAL(今ふさわしい日本語を思いつかない)な差異。
この差異が、ゼーロンと呼ばれる駄馬をペガサスに、小田原の僻村をどことも
知れぬ神話的空間に変貌させるのである。ところで、「鬼涙村」では、主人公が
本物の鏡を通して自分の姿を見る場面があるのだが、この小説が、上記の作品と
比べて明らかにパワーダウンしているのは示唆的である。小説には本物の鏡は
要らぬ。それを見誤るものが、例えば太宰の『人間失格』などを誉めそやす。
 牧野におけるフィクションの神器は、鏡の他にもう一つある。スクリーンである。

「月光の、静寂な大気の――無限大に青白いスクリーンの中央に、世にも不思議な
巨大なランプの月の傘の如く八方に放った光芒(こうぼう)が澄明な黄金の輪を
現出して、その一区劃の中ばかりが戦闘準備のように花々しい活気を呈している
面白い光景に僕は魅了された。
 ……すると――おそらく僕が余りに凝然と眼を視張って眼ばたきもしないでいる
ために起る視覚の錯誤なのだが、その巨大な提燈は、活躍を続けている花々しい
シルエットをはらんだまま、スーッと音もなく滑走し、宙に浮んで、小さく、
明るい月に変った。それでもそこに立働いている人たちの姿は相変らずはっきりと
見え、丸源の太郎、二郎、三郎の顔かたちはおろかどんなことを話しているのか、
その口の動きで想像も出来るくらいにまざまざと判別出来るのだ」
(「吊籠と月光と」引用は「青空文庫」より)

 言うまでもなく、ここにあるのは、現在の映画のスクリーンではなく、
「サイレント映画」のそれである。サイレント映画は、事物から音声と共に重力
まで奪い去る。全てが光の軽さを持つ。「天狗洞食客記」の硬直症に陥った主人公
が寄宿する、薄暗い四畳半の部屋に穿たれた丸窓も同様のスクリーンである。

325 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2006/03/22(水) 22:18:24
(つづき)
「やがて藤の房はめき/\と伸びて、窓の先を覆はんばかりであつた。その間から
どん/\橋をゆきゝするテルヨさんの姿が窺へるのであるが、藤紫色の着物と
代つたので、もう窓の下まで伸びて花をつけた藤の花の一房が揺れてゐるかの
やうに私の眼に映るのであつた。それが、怪しく妍麗な幻のやうに淙々として、
私は次第に私のうらぶれた夢の中に鏘然と鳴り渡るものを感ずるらしかつた。
異様な酒の酔で私の眼も頭も終日朦朧としてゐるせゐか彼女がゆきゝする藤の花の
盛りの庭の光景から、古風な舞踊劇の舞台面でゝもを眺めるかのやうな作りもの
としての悦ばし気な絢爛さに目を奪はれるのであつた。
 三度の食事を彼女がこゝに運んで来るのであつたが、眼近かでは私はその姿を
眺めぬことにしてゐるので、空を覆ふた藤棚の下に眺める彼女が幻灯の中のものゝ
やうに見えるのであつた。」(「天狗洞食客記」引用は「牧野信一電子文庫」より)

 この小説で、音声と映像の乖離は奇妙な形をとる。主人公とテルヨは、極端に
嫉妬ぶかい主人に常に見張られているため、食事中会話を交わすどころか、互いの
顔を見ることすらままならない。そこで二人は、池を挟んで、やはり丸窓を通して
二人の様子を監視している主人を欺くため、顔と口を全く変えずに会話を交わす
ことになる。

「それから私たちは食事の度毎にそれとなく四方山のことなどをはなすやうに
なつたが、顔つきや口つきを全く動かすことなしに言葉を吐くといふことは妙な
もので、「言葉」といふものが全々発声者とは関はりなく、夫々游離して、
明らかに空間に於ける別個の存在物と感ぜられた。私は、私と小間使がとり交す
言葉の凡てが、眼にこそ見えないが、眼に映る凡ゆる物象と同様に、あれらの
転生宗教家連が信ずる如く夫々命を持つてたゆたうてゐると思はれた。」(同上)

326 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2006/03/22(水) 22:19:34
(つづき、これでおしまい)
 ここでは、サイレント映画の台詞が挿入される字幕によって表されるのと同様の
現象が起きている。言葉が発声者から奪われ、「空間に於ける別個の存在物」に
なるのと同時に、発声者は純粋な光学的映像となる。ここからドタバタ喜劇が
はじまり、そして「美」が現れる。
 しかしこの美の何と言うはかなさか。これら光学的存在を構成するのは太陽の
光ではない。月の光や幻灯の光である。夜の光である。
 かつて安吾の太陽しか知らなかった。その当時、牧野の作品を読んでも、昼の
単純にして強烈な光にくらんだ目には、なにやら朧な影が闇の中でうごめいている
ようにしか見えなかったように思う。これは成長か、衰退か。

327 :吾輩は名無しである:2006/03/23(木) 20:09:05
よって、いくら精神医学を学ぼうが、あの悲劇は解明できない。
わたしのライフワークはふたつの「なぜ」を解き明かすことである。
なぜが眼前で投身自殺? なぜ日記にわたしへの不満を?
なぜ原一男のせいなのか? なぜ2ちゃんねるがわたしを追い出す? 
おそらく徒労に終わろうことはわかっている。それでも――。
精神病ってなんだろう。それを知るための旅にいまでている。どこに行き着くのか。

>797 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/12/12(月) 23:40:47
>誤解です、関場先生……orz
>
>798 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/12/12(月) 23:41:40
>関場ってキチガイはおもしろい(きゃはは♪
>
>799 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/12/12(月) 23:42:15
>>>798
>偽者?

328 :吾輩は名無しである:2006/04/02(日) 08:59:03
「真説ラスプーチン」上下 エドワード・ラジンスキー 沼野充義 望月哲男訳 NHK出版 2004
ラスプーチンの評伝。
新発見の資料と称する、ロシアの2月革命直後の取調べ記録を元にしています。
けれど従来のラスプーチン像をくつがえすような新事実の紹介や、
斬新な考察があるわけではありません。
歴史の本というより、よみものとして読めばそれなりにおもしろいです。
ラスプーチンと鞭身派とのかかわりについての記述に興味をひかれました。

ついでにアニメ映画「アナスタシア」も観ました。
映像は美しい。
ここで描かれるラスプーチンは皇帝への復讐に燃える悪の権化です。
けれど真実のラスプーチンはそんな単純な人間ではなかった。
いったいラスプーチンは何者だったのか?

329 :吾輩は名無しである:2006/04/02(日) 09:04:35
「101/2章で書かれた世界の歴史」 ジュリアン・バーンズ 丹治愛・丹治敏衛訳 白水Uブックス 1995
ノアの箱舟に密航者が乗り込んでいた!
目撃者によって暴かれる箱舟の真相。
そんな奇抜な第一章からはじまる10と1/2章の話。
ジェリコー作「メデューサ号の筏」でイコノロジーを展開する第五章や
箱舟の探査に挑む宇宙飛行士を描く第九章など、
それぞれが時と場所の異なる独立した面白い物語でありながら、
各章が関連してひとつにつながる歴史を紡いでいます。
傑作です。

330 :吾輩は名無しである:2006/04/03(月) 22:13:43
美香 ◆ESCVVanDCU (旧 美香 ◆FE5qBZxQnw )のブログ

分け入つても分け入つても本の山
http://yondance.blog25.fc2.com/


331 :文学噛ませ犬 ◆Se8QkAHL2o :2006/04/04(火) 16:03:38

こっちもよろしくなんだONE!

黄金の亡命王朝
http://dokuryo.blog25.fc2.com/

332 :霧島.com:2006/04/16(日) 12:42:19
「文化人類学15の理論」中公新書 綾部恒雄著

文化人類学の成果があらゆる分野で引用・利用されるようになったが、
それが必ずしも正しい理解にもとづいているとは言いがたいことが多い。
本書はモーガン以降の文化人類学理論の流れを進化論から機能主義をへて
広義の構造主義への展開としてみる立場から15の学説に分けて、それ
ぞれ背景・特質・展望を中心に分析、解説する。これから文化人類学を
学ぶ人はもちろん、他分野の専門家にも役立つ学説史の入門書である。

333 :吾輩は名無しである:2006/04/17(月) 12:28:32
       巛彡彡ミミミミミ彡彡 私がジエン馬鹿の美香◆ESCVVanDCU(※Yondaに改称)
       巛巛巛巛巛巛巛彡彡      30歳。無職のひきこもり。学歴コンプレックスで自称早稲田卒。
   r、r.r 、|:::::           |  2chに貼り付いて一日中ジエン。
  r |_,|_,|_,||::::::     /'  '\ | 過食症で食っては吐きを繰り返す毎日。
  |_,|_,|_,|/⌒      (・ )  (・ )|  現実世界には生きる場所が無く 
  |_,|_,|_人そ(^i    ⌒ ) ・・)'⌒ヽ   2chで頭の悪さ丸出しのレス書きなぐり
  | )   ヽノ |.          ,| 自己顕示しているつもり。
  |  `".`´  ノ     ノ ̄i  |  でも、文学板の人には全然見向きもされず
  人  入_ノ´    ヽニニノ ノ\    毎日悔し泣きしてるの。逆立ちしてもかなわないので
/  \_/\\       /|\\      総合学としての文学(ネット論客)の個人情報晒しが慰め。
      /   \ ト ───イ/   ヽヽ   名無しとステハンでジエンする私を
     /      ` ─┬─ イ     i i  見かけたらどうかどうか
    /          |      Y  | |  構ってね!
797 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/12/12(月) 23:40:47
誤解です、関場先生……orz

798 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/12/12(月) 23:41:40
関場ってキチガイはおもしろい(きゃはは♪

799 :美香 ◆ESCVVanDCU :2005/12/12(月) 23:42:15
>>798
偽者?

個人ブログ「分け入つても分け入つても本の山」http://yondance.blog25.fc2.com/

334 :吾輩は名無しである:2006/04/21(金) 18:25:07
在学中に三田文学に顔出しておいて、就職は電通、適当に殿様づとめしながら小説も書いて、
コネを生かしてデビューするっていうのが塾員の通常の路線。
生活に余裕を持ちながら、高級な趣味として文学に対するわけだ。
大学院、講師、助手、助教授という学内残留コースもいい。三田文学に寄稿している多くはこのコースの連中だ。
三田文学の編集専従であることを生かして、文学部の講師になるやからもいる。加藤宗哉編集長がそう。
こいつら遠藤周作が権力を持っていた頃の残滓だ。
遠藤周作ってのは表面と裏では人格がまったく違うインチキ人間だったらしい。
マンネリのカトリック文学とかつまんない小悦ばっかり書いてさ。がんで死んだのに、病名隠してさ。
いやなジジイだったよ。


335 :吾輩は名無しである:2006/04/21(金) 19:20:35
誤爆乙

336 :吾輩は名無しである:2006/04/21(金) 20:21:36
おまえ遠藤に恨みでもあるのか。

まあ、臭作は「踏みなさい」と言って許してくれるよ。

337 :吾輩は名無しである:2006/04/21(金) 20:39:53
ありえねー

このジジイは、道で五百円拾ったやつに、
それ俺が先に見つけたんだ。よこせ、な、な
って執拗に食い下がって、呆れた相手からぶん取って
悦に入ってる野郎だぞ。
三田関係者には有名な実話です(笑)

338 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2006/04/21(金) 20:40:30
珍しくagaっているので、便乗してアピールをw

当スレでは読了報告を幅広く募っております。
一言でも長文でも、ほめるも貶すも大歓迎です。
どうぞよろしく。

339 :吾輩は名無しである:2006/04/21(金) 23:25:09
ムー大陸生きてたのか
美香は元気にしてるのか?

340 :吾輩は名無しである:2006/04/21(金) 23:27:57
「ペドロ・パラモ」ファン・ルルフォ著  杉山晃 増田義郎訳 岩波文庫

ブックオフにて衝動買いをしてから早5年。未だに1ページも読んでいない。
そろそろ読んでやるかと今日ふと思い立ちページを繰ろうとした記念カキコである。


341 :吾輩は名無しである:2006/04/21(金) 23:28:54
ムーは美香のメンヘラ叩きを煽ってた最低人間
死ねよ

342 :吾輩は名無しである:2006/04/21(金) 23:31:22
>>340
最近本読む気が起きないので、誰かこの本を読んで感想を綴ってください。
そうすることによって、読まずとも、読んだ気になれるという便利なスレですねここは。


343 :吾輩は名無しである:2006/04/21(金) 23:31:52
偽善者白石昇も死ね

COMMENT
閲覧者 URL @
04/15 22:20 yonda様へ. 人の送付したメールの内容を無断でネット上に公開
したり嘘偽りの情報を流さないでください。
私のプライバシーを侵害し著しく名誉を毀損する行為
です。
これ以上同様な行為を続ければ警察等に通報します。

なお、私の固定ハンドルネームが禁止ワードに含まれ
ているようなので名前は閲覧者にしました。
Yonda? URL @
04/16 12:35 閲覧者さんへ. 

警察ですか。
怖いですね。
気をつけます。
コメント、ありがとうございます。
白石昇 URL @
04/17 13:22 . びーるーいえーい。
URL @
04/17 17:19 . いぇーい。
Yonda? URL @
04/17 20:21 白石昇さんへ. 

いえーい。
Yonda? URL @
04/17 20:23 いぇーい。. 

いぇーい。

344 :吾輩は名無しである:2006/04/21(金) 23:33:54
あれはクズのあつまり
相手にしないこと

345 :吾輩は名無しである:2006/04/21(金) 23:52:06
>>343
URLキボン

346 :吾輩は名無しである:2006/04/21(金) 23:54:21
>>345
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-604.html

347 :吾輩は名無しである:2006/04/21(金) 23:59:50
白石昇はタイで津波の取材やったと自慢してるが
こういうところで本性が出る
クズはさっさと死ね



348 :吾輩は名無しである:2006/04/22(土) 00:00:32
>>346
サンクス

349 :吾輩は名無しである:2006/04/22(土) 00:04:37
しかしさ、美香は見ず知らずの演劇青年とは会うくせに
何で白石やころにゃんやムーとは会わないんだろうな
ムーなんかはブログ立ち上げの功労者なんだから
リアルで会って感謝の意を伝えるべきだと思うけどな

350 :吾輩は名無しである:2006/04/22(土) 00:05:01
ついでにこれも
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-562.html
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-558.html

351 :吾輩は名無しである:2006/04/22(土) 00:07:02
>>349
単に負け組みとは会わないってことだろw


352 :吾輩は名無しである:2006/04/22(土) 00:14:31
なすりつけの工作に必死なんでしょ。

353 :吾輩は名無しである:2006/04/22(土) 00:20:01
脳内青年との
自作自演会話でしょw

354 :吾輩は名無しである:2006/04/22(土) 00:21:11
偶然はターゲット某を助けたが
それは自衛のための「共同キャンペーン」を張りたいだけの
ストーカー集団からすれば想定外のこと
なので当初の予定どおりのターゲット某貶めシナリオをゴリ押し
嫌がらせの羅列を続けているのでしょ

355 :吾輩は名無しである:2006/04/22(土) 00:24:44
歌手Hの未発売アルバム歌詞との類似がすべての元凶だったと思います。


356 :吾輩は名無しである:2006/04/22(土) 00:27:07
323 名前:文責・名無しさん :04/07/24 22:43 ID:clf+3f+5
第三者機関といいながらお仲間集めてシャンシャン報告かいw
いまどき霞が関でもこんなことやらんぞw

324 名前:文責・名無しさん :04/07/24 23:12 ID:mqjQriUk
ドラえもんであったなぁ、嫌なことがあっても何でも他人のせいにして慰めてくれるロボット。
タイトル忘れたけど。

327 名前:文責・名無しさん :04/07/25 23:30 ID:QZNcm5DB
世の中、マスコミを金で買収した奴の勝ち。
どんな犯罪者でもマジメ人間として、デッチアゲることなど朝飯前。



357 :吾輩は名無しである:2006/04/22(土) 00:27:33
俺が論だったら演劇青年のブログに乱入してデートをぶっ壊してやるんだがなw

358 :吾輩は名無しである:2006/04/22(土) 00:30:28
美香って今年で30?
さすがに処女脱出したくなったんだろうなw

359 :吾輩は名無しである:2006/04/22(土) 00:55:35
>>357
あんた、福田逸ブログ&一般メンヘラブログ荒らし+個人情報ばらまき
の人?

360 :吾輩は名無しである:2006/04/22(土) 01:19:32
あいつのブログも
プロフィール欄に
死体みたいに置かれたぬいぐるみ写真なんかやめて、
高野悦子の写真を盗用し少しばかり画像処理を施して貼れば、
もっと、IP抜いたり個人情報集めて、
悪用できんじゃね?


361 :吾輩は名無しである:2006/04/22(土) 09:17:55
しかしムー大陸は卑劣だな。
論先生の社会損失、美香の逮捕

どちらに転んでも腹の中でほくそ笑むんだな。
無名の下流の不健康な攻撃性がみえるよ。
賭けてもいいよ。こいつはロクな人生を歩んでこなかったし、
これからもそうだ。

362 :吾輩は名無しである:2006/04/22(土) 16:12:34
文学板主要コテハンにしてネット論客・・・
天皇殺害事件でも有名♪
美香論先生=総合学としての文学 ◆YH4pIhUROU
通称「論先生」の実態が今日明らかになる!!!!!!!

★☆★祭り会場★☆★
牛の涎の如く雑談を垂れ流すが好い 38
http://book3.2ch.net/test/read.cgi/book/1145266824/

http://eload.run.buttobi.net/cgi-bin/img/e_402.jpg

右側の人物が…

関連スレ
牛の涎の如く雑談を垂れ流すが好い 37
http://book3.2ch.net/test/read.cgi/book/1144038838/
【皇位継承】万世一系の皇統を守る7【男系維持】
http://off3.2ch.net/test/read.cgi/offmatrix/1142004385/
book:文学[重要削除]
http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/saku2ch/1028386572/66-71

363 :美香 ◆FE5qBZxQnw :2006/04/22(土) 16:42:56
/             ,-个、         |
|           /   / ヽ         |
|         /    ノ  ヽ、∧      |
|       /      ノ__ ヽ      |
|     /━━    // ̄ ̄  ヽ     |
ヽ    /          <●>   ヽ  ./ヾ
 ヽ   /  <●>            |  / /
  ヽ  |      |           | |  |
  ヽヽ |          ヽ       | / |
   ヾヽ|      '  、_.,   ヽ     イ_/
    | ヽ|                  | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    ` '.ヽ      _         / < ボクは晒しが
      ヽ   ' ̄    ̄`     /|   \_ 愉快でたまらない
       ヽ    -〜      / |
        |\         /  λ

364 :吾輩は名無しである:2006/05/04(木) 19:51:11
「はじめての宗教学 『風の谷のナウシカ』を読み解く」 正木晧晃 春秋社 2003
宮崎アニメを宗教学者の視点で語るというより、宮崎アニメを足がかりにして
宗教学を語っている本です。
だからオームが変態しない幼虫・永遠の子どもであるということから水子供養の話になったり、
ナウシカの服の色からキリスト教図像学へと話がどんどん飛躍していって
ナウシカやオームは著者の専門のチベット密教の薀蓄の瘴気のむこうに置き去りです。
本の帯や前書きに宮崎アニメを解釈する本ではないとことわってはいるのですが、
やはりタイトルに使うのはアンフェアだと思う。

365 :吾輩は名無しである:2006/05/04(木) 20:03:01
「オレンジだけが果物じゃない」 ジャネット・ウィンターソン 岸本佐知子訳 国書刊行会 2002
イギリスの地方都市の労働者街で育った少女時代を回想的に描いた作品
娘が病気で耳が聞こえなくなって黙っているのを精霊に満たされていると思い込むような
狂信的な宗教家である母と存在感のない父との暮らしを苦いユーモアと込めて描いています。
主人公は同性の女性を愛してしまうため、母と教会から弾劾され、家を出て行くことに
なるのですが、この本は単に宗教批判の本ではありません。
同じ教会に属し母親以上に変人であるエルシーというおばあさんが象徴的。
主人公の一番の理解者であり話相手でもあるエルシーがこの物語の鍵だと思う。
エルシーの言葉――「物語は世界を理解するのに役立つ」――通りに
随所におとぎばなし風のエピソードが挿入されています。

366 :吾輩は名無しである:2006/05/04(木) 20:22:02
「アトランティスのこころ」 スティーヴン・キング 白石朗訳 新潮文庫 2002
上巻は1960年のアメリカの地方都市で母と2人暮らしの少年が体験する不思議な話。
下巻以降の数章は1966年から1999年の各地を舞台に、上巻に出て来た人々の後日談が
描かれています。この小説はホラー・SF的なところもあるのですが、全体はベトナム戦争を
中心にした一種のアメリカ史として読めます。
上巻で母子の家庭に現れる謎めいた男が少年に言う

  世の中には、筋立てはそれほどおもしろくなくとも、すばらしい文章で書かれている本が
  いくらでもある。筋立てを楽しむために本を読むのも悪くない。物語を楽しむことをしない
  読書家気どりの俗物になるんじゃないぞ。 48頁

はい、物語を楽しまない俗物にはなりたくない。
ただ文章の巧さと物語のおもしろさは不可分だと思う。
その点ではスティーウン・キングの小説は悪くない。

「蝿の王」 ゴールディング 平井正穂訳 新潮文庫 2003
これは再読。
「アトランティスのこころ」を読むと読み返したくなるのです。
キングの小説のなかで少年の母親が槍を持った男たちに襲われる幻想のシーン
(上巻、348頁)は、「蠅の王」でジャックの狩猟隊が子豚のいる牝豚を襲うところ
(227頁)と呼応させていることがわかりました。
それからこの部分のちょっと前にラーフの回想でこんな箇所があるのに気づいた。
 「あの頃は母さんもまだみんなといっしょだったし、……」188頁
この無人島には牝豚以外に女性がまったく登場しないのですが、
本国のラーフの家庭も母親不在だったのですね。

367 :ポックス:2006/05/06(土) 13:02:51
『料理人』 ハリー・クレッシング 一ノ瀬直二訳 ハヤカワ文庫

いじわるで残酷な展開になるかなと思って期待したがじらせるだけじらせておいて結局そのまま終わるというある意味中途半端で
ある意味こういうのが文学の「距離感」ってやつなのかなとも思った。すぐに忘れそうな作品だ。

『すべての男は消耗品である』Vol.2 村上龍 角川文庫

今後の人生に役立つので読みなさいと母から手渡され半ばいやいや読み始めたのであるがこれがなかなか面白い。
ちなみに僕の母は水商売しているのだがまあそれはおいておいて、たしかに男は消耗品であると納得した次第
である。村上は言う。「自分の快楽をごまかしている男は絶対にもてない。そして快楽は感嘆には手に入らないのである」と。
なるほどとうなる。たしかに困難に挑戦し、それに打ち勝つ男はグレイトであるし、負けても頑張っただけの同情は手に入る。
まあ僕もタクシードライバーは好きで、格好を真似たことはある。もひかんにして、アメ村で買ったUSアーミーのジャケット
をなか裸で羽織り市庁舎の周りを闊歩したが守衛に制止された苦い経験がある。ただし僕はグレイトになったロバート
デニーロは好きになれない。ぼくはやっぱり無名が好きだ。村上においてもそうで、最初の作品は大好きであるが、最近のは
どうも大きくなりすぎて本を買いたいとは思わない。一般大衆ってそういうものだと思うが、そうではなさそうである。そうでは
ないのは、僕がおかしいからだとすると、僕はやっぱり停滞しているのかも知れない。困難に立ち向かう必要がある。しかし
無理する必要もない。人間無理すると醜くなる。これは僕の経験上はっきりと言えることである。それは昔目標を高らかに掲げ公言し
挑戦したが叶わず自滅し顔面に深い皺がたくさん刻み込まれることになったのである。おかげで年より10歳は老けて見えるようになった。
まさに、快楽を手に入れるための挑戦なのに、快楽とは逆のものが手に入ったわけである。僕はあれ以降全く努力していない。
男は消耗品であったしこれからもそうに違いない。今後は蟻のように働かされるに違いないし快楽より苦痛の多い人生に違いない。
だとすればやっぱり苦痛を快楽に思えるようになればいいし、幸いにして僕はMである。





368 :吾輩は名無しである:2006/05/17(水) 17:30:01


  ケモミチWWWWWWWWWWWWWW


369 :吾輩は名無しである:2006/06/04(日) 09:21:08
「ペネロピアド」 マーガレット・アトウッド 鴻巣友季子訳 角川書店 2005
そもそも「オデユッセイア」は多分に男の立場で描かれています。
男に伍してアクティブに活躍することで、現代的観念では最も魅力的な
「女性」となっている女神アテナでさえテレマコスにはこんなことを言っています。

 女の胸の内には、どのような気持が潜んでいるか、そなたも存じておろう。
 女というものは、自分を娶った男の家を富ますことに専念し、元の子供や、
 大切に思っていた今は亡き先夫のことなど、もはや思い出さず、
 それについて訊ねようともせぬのだ(第15歌、岩波文庫)

アトウッドの小説は語り手を貞淑の鑑とされているペネロピアドに設定して
吊し首にされた12人の女中たちの真実をテーマとすることで、
「オデュッセイア」に新たな面から光をあてています。
不満なのは冒頭でオデュッセウスは皆が思っているような男ではない
と言って、何かスキャンダラスな暴露話を期待させておきながら、
結局夫についてはたいしたことは書いていないこと。
オデュッセウスとヘレネの不倫話を読みたかった。

370 :吾輩は名無しである:2006/06/04(日) 09:57:03
「高野聖」 現代日本文学大系5(樋口一葉 明治女流文学 泉鏡花集) 筑摩書房 1975
ホメロスとは一見無関係な映画や現代小説に「オデュッセウス」のかすかなこだまが聴こえるときがある。
映画では『スター・ウォーズ』の父と子の「認知」のテーマや、『ゴッドファーザー』の
マイケル・コルレオーネのレストランでの殺戮場面など。
またゴールディングの「蠅の王」を読んだときは、少年たちが大事にするほら貝の役割は
ホメロスの集会場面での杖と同じだと思った。
「高野聖」にもホメロス風のところがある。
魔法で人を豚に変えてしまうキルケの話だけでなく、物語の構成の点で。
「オデュッセイア」が第9歌から第12歌までオデュッセウス自身の語る
おとぎ話風の冒険譚になっているように、「高野聖」は旅の僧が語るという形式になっています。
こういうスタイルは作中の聞き手の立場(オデュッセウスではアルキノオス、
高野聖では帰省途中の若者)が読者と同じになることで、オデュッセウスと旅僧のはなしが
いかに荒唐無稽であろうとも物語全体としては妙にリアリティが出てくるのです。
作中の長々とした語りが途切れたときの不思議な浮遊感というのは
アルキノオスと若狭の若者と読者とが等しく感じることではないでしょうか。

 こういうと、小暗い広間の一座は、物語に魅せられた如く、静まり返って言葉を発する者もない。
 (オデュッセイア、第十一歌、岩波文庫)

 上人は一寸句切って、
「いや、お前様お手近ぢや、其の明を掻き立つて貰ひたひ、暗いと怪しからぬ話ぢや、
 此処等から一番野面で 遣つけよう。」 348頁
 
読者からすれば夢から覚める夢をみているのに過ぎないのですが。

371 :吾輩は名無しである:2006/06/06(火) 12:32:10
雨・赤毛/モーム(再読
雨は何度読んでも風景の描写に誘われて話の中に引きずり込まれる
赤毛は個人的には一番好きなモームの短編
モームらしさがいろいろな意味で凝縮されてますね

372 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2006/06/09(金) 05:35:26
『気球に乗って五週間』 ジュール・ヴェルヌ 手塚伸一 訳 集英社文庫 1993年

 ヴェルヌが生涯にわたって書きつづけた、約八十編もの「驚異の旅」シリーズの記念
すべき第一作である。
 物語は、イギリス人の科学者が、友人と召使と共に、新発明の気球に乗ってアフリカ
大陸を横断するというもの。本書が書かれたのは1863年である。そのころの西欧にとって、
アフリカはまだまだ多くの未踏の土地を隠し持った神秘の大陸だったのだ。
 どこかでだれかが、ある芸術家の処女作には、その後作品の全てが凝縮されていると
いうようなことを書いていた。確かにこの小説ではヴェルヌの魅惑の全てが、すでに
完成された形で花開いている。ジャーナリストのヴェルヌと夢想家のヴェルヌが、すでに
分かち難く一体となっているのである。
 ところで、空想的な読書が与えてくれる至高の喜びとは何だろうか。それは、われわれの
形をなさないおぼろな夢が、明確なイメージの連なりとなって、奇跡のように眼前に現れる
ことではないか。そう、私は確かにかつてこのように空を飛翔したことがある。いや、
それは「かつてあった」ことへの郷愁ではなく、「かくありたい」ことへの憧憬や渇望
なのかも知れない。とにかく私は確かに知っているのだ。一面の緑の草の海の上を、微風に
乗ってゆっくりと運ばれて行く快楽や、まるで地球の自転そのもののように、次々と眼前に
せり上がって来ては後方に流れ去って行く大地の起伏を。月光に照らされた雲海の美しさを。
そして急激に迫ってくる地面との激突の恐怖を。

373 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2006/06/09(金) 05:36:07
(つづき)
 本書には、飛翔の夢の原型が全て詰まっている。そしてそこには墜落の夢も含まれている。
われわれは、心地よいゆったりとした浮遊の夢から、急激な落下の感覚と共に目覚めることが
ないだろうか。ヴェルヌの飛行の夢も、そのようにして終わるのだ。気球のヴィクトリア号は、
最後にセネガル川の上に不時着し、急流に飲み込まれてしまうのである。以前も書いたが、
ヴェルヌの小説の主人公たちは、必ず最後には未知の世界から住み慣れたわれわれの世界に
帰還してくる。そして、彼らを冒険へと連れ出す様々な乗り物は、彼らを再び元の世界に
連れ戻す使命を完了したとたんに、決まって跡形もなく破壊されてしまうのだ。というより、
それらが破壊されることによって、主人公達は夢の世界から現実の世界への帰還を余儀なく
されるのである。なぜか。それは、終わらぬ夢はないし、終わらぬ物語もないからだ。
 だから、われわれは目覚めた後、実はこれらの乗り物こそが、夢そのもの、物語そのもので
あったことを知るのだ。ヴィクトリア号も、ノーチラス号も、アルバトロス号も、スクリュー
島も、ロケット弾も、実は空間の中を移動する物体ではなく、一つの世界全体だったので
ある。これらの心地よい小部屋の周りに、全宇宙はパノラマのように投影され、ぐるりと
一回転したのだ。つまりそれらは、最後に破壊されることによって、逆説的に己の存在を、
全宇宙に拡大するのである。いや、己の中に全宇宙を飲み込んでしまうといった方がよいの
かも知れない。重ねて強調すれば、われわれがその小宇宙の全体像を知覚するのは、夢の中
ではなく、あくまで目覚めた後、物語が終わった後、それら海や空を駆ける機械が破壊された
後である。このフラッシュバックに似た全体的な知覚のありかたを、あるいは批評といっても
良いのかも知れない。とにかくヴェルヌは夢を知っていただけではなく、覚醒がどのような
ものなのかもよく知っていたのだ。物語はその終わりを、夢は覚醒を必要とする。

374 :吾輩は名無しである:2006/06/12(月) 14:47:28


375 :吾輩は名無しである:2006/06/12(月) 18:20:48
『戦争と平和』ようやく読破しました!
本当に世界最高の小説だね、これは。

376 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2006/06/14(水) 23:36:30
アンリ・ボスコ 天沢退二郎 訳 新森書房 1988年

 夢見るような小説である。
 しかしアンリ・ボスコの小説には、夢そのもの、幻想そのものが現れるのではない。
 大著『マリクロワ』も、その外伝ともいえる本書も、現実の世界からもう一つの
世界へ移行しようとする魂の高まりだけを描くのだ。
 現実の風景に、ふと不可思議で濃密な気配が漂い、あわやそこにもう一つの世界が
二重写しになろうとする刹那で、物語はつつましく足を止める。
 なぜなら、あまりに美しい夢は、ひとを殺すからだ。
 主人公のシルヴィウスを見舞う運命がそれである。
 現実と夢の越境者である彼は、死によってわれわれの前から姿を消す。
 しかし物語はもはやその後を追って夢の中に彷徨いこんだりはしないのである。
 シルヴィウスはメグルミュー家の一員である。南仏の田舎町、ポンディヤルグに根を
おろしているこの一族は、みな堅実で優しく夢見がちだが、極端な出不精で、自分達の
住み慣れた土地から決して離れようとはしない。
 しかしシルヴィウスはある冬の日、雪に蔽われた荒野に吸い込まれるようにして町を
離れる。彼はその果てにたどり着いた村で、ある旅回りの人形劇団が演じる不思議な
芝居を見て、すっかり心を奪われてしまう。

 それこそはまことのシルヴィウスの国、かれの夢の夜明けからずっと夢に見てきた、
 そしてあんなにも遠くから想像してきた国なのだった。まさしく、永久にそこにたどり
 つくことはないと諦めて、かれは、毎日自分の心の中にその国を作り出すのだったが、
 そこから毎日その素晴らしさが、少しずつ消えていくのだ。そしていま、その国が目の
 前に、六フィート四方の布張りの舞台に、現実でありながら虚構のものとして、手で
 さわれると同時に、つかむことができないものとして、デリケートな形(フォルム)と
 声――ふるえるような老人の声と、鈴をころがすような女性の声と――をそなえて、
 そこにあるのだった。そして、その形と声とを通して、これまで彼シルヴィウスが
 六十年間も夢の中でたくさんたくさん生み出してきたのと同じような、解き難い物語
 (ファーブル)が。(48-49頁、カッコ内は原文ではルビ)

377 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2006/06/14(水) 23:37:25
(つづき)
 シルヴィウスはその場で劇団と運命を共にすることを決意する。メグルミュー家の人々
は、失踪した彼を八方手を尽くして何ヶ月も探し回り、ついにある夏の日に、彼が劇団と
出会ったその村で、今は楽士となったシルヴィウスと再会するのだ。一族は、彼が奏でる
クラリネットの調べに深く心を揺り動かされる。

  …ところが今、言うに言われぬ秘密、かれらの夢の遠い泉が、初めて言葉を得て、
 夏のさなか、星でいっぱいの田園へ向かって枝をひろげた古いカシワの木の下で、
 ついに語っているのだった――メグルミュー家の人々が、始祖以来、自分たちの魂の
 中に聞きとりながら理解できずにいたものを。(77頁)

 そのとき、一族の長であるフィロメ―ヌ伯母さんは思わず叫ぶのだ。

「シルヴィウス、もうやめて頂戴、あなた、あたしたちを殺す気……」

 彼女は本能的に知っている。あまりに真実な夢はひとを殺すのだ。
 しかし、ここで起こったことは、実はある予感に過ぎない。まだ夢は独立した肉体を
得てはいないのだ。それは、あくまで「現実でありながら虚構のものとして、手で
さわれると同時に、つかむことができないものとして」、現実のクラリネットの音から
立ち現れる影のようなものでしかない。そして、現実の生の領域で、芸術がなしうるのは
ここまでである。この小説そのものも含めて。
 一方、一族によって生まれ故郷の町に連れ戻されたシルヴィウスは、さらにその先、
純粋な夢の領域に越境してしまうのだ。もはや目覚めることのない眠り、つまり死を
通して。彼は、彼がはじめて劇団と出会った日の一年後の午前零時に、眠りからそのまま
死に移行するようにして息をひきとるのである。
 この美しい寓話は、夢が生まれ、再び還って行く不可視の場所が、現実とは別の場所に
あるというより、現実そのものの内の、ある到達不可能な極限にあることを示唆している。
現実は、その極限に引き寄せられて、時にわずかにかき乱され、振動を起こすが、それは
海が潮汐運動によって波打ちながらも、決して月に達することがないようなものである。
もちろん、その極点とは死そのものに他ならない。あらゆる夢は、あらゆる物語は、死に
牽引され、その周りをめぐりつづける。

378 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2006/06/21(水) 23:17:08
『バルザック選集1 シャベール大佐』 
オノレ・ド・バルザック  川口 篤・石井 晴一 訳 創元ライブラリ 1995年

 大きな活字で百数十ページ。コンパクトにまとまった『ゴリオ爺さん』といった趣がある。
 シャベール大佐を裏切るのは、彼の娘ではなく妻である。彼はナポレオン帝政下、ロシア
との戦いで死んだと思われていた。しかし彼は九死に一生を得、浮浪者同然となってパリに
戻ってくる。ところが既に再婚していた彼の妻は、現在の自分の地位を守るため、彼の存在を
認めないばかりか、彼を陥れる計略までめぐらすのである。
 一方、シャベール大佐は底抜けのお人よしである。つまりゴリオ爺さんの同類なのだ。
バルザックの小説には、たいてい彼のような一方的な受難者が存在する。彼らは、様々な
人物の欲望や打算や陰謀や裏切りが水平に交錯する「人間喜劇」の世界に、唯一垂直の次元を
もたらすのである。ゴリオ爺さんの盲愛、モルソフ夫人の純愛、バルタザールの探究心、
ユロ夫人の貞節、シャベールの寛容がもたらす底知れぬ受難劇は、彼らの破滅に至るまで、
ブラックホールのように周囲の事象を飲み込み続ける。実はこれらの小説世界を運動させる
原動力となっているのは、様々な登場人物たちの様々な正の値を持つ欲望ではなく、ある
特異点をなす人物の、無限の負の値を持つ受難なのだ。しかし彼らは皆生身の人間である。
無限の受難が、彼ら有限の存在を食らい尽くしたところで物語は終わる。だから彼らは皆、
キリストのなりそこないである。復活も、昇天もない。

379 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2006/06/21(水) 23:17:59
(つづき)
 このようにしてシャベール大佐も破滅する。物語の最後にわれわれが彼を目にするのは、
貧民相手の養老院においてである。しかし、上に挙げた「人間喜劇」の他の受難者に比べて、
彼の最後には、そこはかとない明るさが漂っているような気がする。たぶんそれは、彼
ひとりがナポレオン帝政時代の最後の生き残りであるからなのだろう。他の人物たちは、
それに取って代わった王政復古期のブルジョア社会の住人である。バルザック自身が、この
時代を「それは寒々とした、けち臭い、詩に欠けた時代であった」と評している。それが
過去形ではなく、現在まで継続していることは言うまでもない。それにしても21世紀の
住人であるわたしが、200年も前に終わった時代の挽歌に打たれるのはなぜだろう。
 それはたぶん、バルザックの時代を境にして物語=叙事詩(ロマン)が死に、小説
(ノヴェル)が生まれたからだ。バルザックの作品は、叙事詩の死にして小説の誕生なのだ。
シャベール大佐は最後の叙事詩の英雄として、彼の妻をはじめとする、小説の時代の登場人物
たちに滅ぼされたのである。

380 :吾輩は名無しである:2006/06/24(土) 20:25:48
「旅人」湯川秀樹 角川文庫

思い返すと理論物理学を志したのはこの書の及ぼすところが大きい。
これは、成功した科学者の自伝書ではない。深淵を彷徨う一個の明晰な旅人の詩である。
その旅人は厳正な態度で己に挑む修行僧でもある。ゆえに人の心を動かしてやまない何かがある。
それな何だろうか。そう問いながら暗い夜道を散歩する。
ふと林の暗闇に目を向ける。そこに深遠なる無限を見たのである。
私の足は急に震え出した。のみならず激しい羞恥に襲われた。
今までの私の研究のいかに平俗であったかを痛感したのである。
帰宅した私は、こじゃれた寝間着を脱ぎ捨て、綿パンとコーデュロイのジャケットを羽織り気味に愛車のボルボに乗り込んだ。
どこに行くというのでもなかった。ただブルブル震えてやまない私の身体をどうにかしたかった。砂利道を通り越したその時である。
携帯にメールが入った。誰だ今ごろ。
メール欄を開く。愛人の雪絵であった。彼女から誘いがあるとは意外である。
私は誘いに藁をつかむ思いで乗った。
その晩私たちは深遠の宇宙を彷徨った。
翌朝、私は着想した。

381 :吾輩は名無しである:2006/07/20(木) 16:59:25
なんだかコピペっぽいがw

自分の書いた文章に悪酔いしてる文章の典型だな
本の内容については何ひとつ語っていない

382 :吾輩は名無しである:2006/07/21(金) 14:03:16
川端の「乙女の港」読了。
百合にぞわぞわしたイキオイで、川端つながり「みずうみ」読み始め。
途中、気持ち悪くて脳貧血起こしかけた。本当にすごい変態だ。

383 :吾輩は名無しである:2006/07/29(土) 12:04:29
保守

384 :吾輩は名無しである:2006/07/31(月) 06:44:18
「本格小説」水村美苗
文庫

今まで読んだ小説の中で一番面白かった
が、再読は無用。
脳に焼き付いた。
一字一句が焼き付いてる。
とにかく、これは面白い。
しかしあえて批評をすれば、序盤、人を笑わせすぎである。
面白半分に書いている印象を強く持ちました。
最初から最後まで全力投球が文学の基本姿勢だと思ってるので、
不謹慎だなと。
まあ、笑えたからいいけど。
あれで笑えなかったら最後まで読んでなかったしね。


385 :吾輩は名無しである:2006/08/07(月) 01:53:48
ageるべきか迷うんだONE!

386 :白石昇 ◆ywq0.8TYV6 :2006/08/08(火) 20:19:03
07月25日 忘却の河           福永武彦 新潮文庫
07月29日 レキシントンの幽霊      村上春樹 文春文庫
08月04日 赤毛の司天台         新田次郎 中公文庫

387 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2006/08/09(水) 01:17:24
『脂肪の塊』 モーパッサン 水野亮 訳 岩波文庫

映画『駅馬車』の元ネタということで手にとった。
リンゴー・キッドは出てきませんでした。
彼なら、最後涙にくれる娼婦をほっときはしなかたろうに。
それにしても映画の通俗性なら許せて、
この小説のいわゆるリアリズムが鼻につくのはなぜだろう。

388 :吾輩は名無しである:2006/08/11(金) 14:22:20
「失われた時を求めて」プルースト
ようやく読了したことを報告する。
スタンダール全集
流し読み。
「コーラン」
熟読
「仏典」
「旧約聖書」
「宇治収遺物語」
「ジャパンアズNo.1」
「ジャパンアズNo.1?」
読破

389 :吾輩は名無しである:2006/08/12(土) 21:39:44
「仮面の告白」
三島由紀夫の作品を初めて手に取りました。
とにかく、一行も無駄のない内容に圧倒されました。推敲、とは、こういうことを言うのだろうな…と。
同時に、私の中で曖昧だった靄のような何かが、急激に、形を取った気がして。
その鮮明さが怖い。
あまりにもリアル。
私は活字の中で溺れてしまった。

17歳の夏休みに、こんな本を読むんじゃなかった……。

390 :吾輩は名無しである:2006/08/12(土) 21:42:51
ついでに「金閣寺」も読んでみよう!

391 :吾輩は名無しである:2006/08/12(土) 22:04:18
「本格小説」 水村美苗 新潮文庫

諧謔と知性溢れる傑作。
睡眠不足必定の不世出の名作。
娯楽性と純文学性をマッチさせた天才。




392 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2006/08/31(木) 03:28:39
『夢と夢の間』
後藤明生 集英社 1978年

「だからさ、その文房具を買って来て、包み紙をはずしてしまえば、もう輪ゴムは
いらなくなるわけだよな」
「うん」
「しかしだな、確かにそれで輪ゴムの用はなくなるわけだけどね、だからといって、
輪ゴムが、ゴムでなくなるわけじゃないだろう」
「うん」
(p216)

 これは、主人公の大学講師と、中学三年になるその息子との会話である。
 敗戦直後の物資欠乏の中で育った主人公が、高度経済成長後の繁栄を空気のように
呼吸している息子から、なぜ輪ゴムを捨てずに、机の上のインク瓶に巻いて取って
おくのかと聞かれ、苦心して説明を試みているのである。世代間の断絶の描写としては、
一見ありふれたもののように見える。おそらくこの時代の大抵の家庭では、これに
類する会話が一度ならず交わされたのではないか。私もまた両親の「ものを大切に」
という説教が、その効果はともかく、いまだに耳朶にこびりついている世代に属して
いる。
 しかし、主人公の直面する困難は、世の親達のそれとは少し性質を異にしているの
かも知れない。彼は別に息子に対して、ものを大切にせよと説教しているのではないの
である。なぜなら、彼がインク瓶に巻きつける輪ゴムは、ただ巻きつけられたままで、
何かに役立てられることもなく、インク瓶が空になるのと同時に、一緒に捨てられて
しまうからだ。
 この困難さというか、もどかしさは、そのままこの小説が耐えている困難さに一致
する。この小説で何か難解なことや困難なことが語られているというわけではない。
作者の現実が幾分か反映されてもいるであろう主人公は、あくまでも平凡な小市民
として存在しており、その思考も行為も、読者の常識を逸脱することは決してない。
単に「世代論」として読まれるのであれば、本書は気の抜けたビールのように希薄な
存在感しか示さないだろう。

393 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2006/08/31(木) 03:30:12
(続き)

 しかし、本書がはらむ困難は、正にこの平易さと希薄さそのものの中にあるといって
よい。「輪ゴム」が「輪ゴム」としての用途=「メッセージ」を剥奪された後も、ゴム
という物質であり続けるように、日常はふとした瞬間に、その希薄に纏われた「意味」
を吹き払われて、単なる「物質」としての己をあらわにするのだ。そのあるかなしかの
瞬間を現前させるために、意味はできるだけ希薄でなければならない。しかも、その
意味を取り払われた後に残る物質も、いわゆる「真理」などというものとは程遠い、
鈍い肉体的な感覚をつかの間与えるのみなのだ。

「彼は、妻とのやりとりを打ち切って、もう一度、競馬場の方を眺めた。すると、自分
が今こうして、この京葉ハイツと呼ばれるハイツの、五階のベランダで、道子という
名前の女と並んで立っていることが、何か不思議なことのような気がしてきた」(p173)

「この二つの世代の違いは大きい。(中略)しかし不思議なことは、その違いそのもの
よりも、そういう二つの世代が、こうやって親子として暮らしているということだろう」
(p12)

「彼はふとんの中から、呆んやりと仕事部屋の天井を見上げた。そして、また、おや、
と思った。天井は白木の板だった。それが何か不思議なことに思えた。この鉄筋
コンクリートのハイツの中に、そんなものがあることが意外だったのである。
 もちろん山川の仕事部屋の天井が、とつぜん白木の板に変わったわけではなかった。
山川が忘れていただけだった」(p344)

 このように、主人公は何度も「不思議」がる。しかし、その感覚が彼を実存的な考察
に追いやることはついになく、平凡な市民である主人公は、一瞬の眩暈の後に、再び
日常の世界へと戻って行く。ところで、この希薄な意味を纏った希薄な物質としての
日常の正体とは何だろうか。それはおそらく「言葉そのもの」なのだ。言葉は、ゴムや
紐(これも主人公の執着の対象である)のような物質的存在としてあり、本書もその
ような限りなく無意味に近い物質の集積として存在している。そこに纏わりついている
「意味」などは夢のようなものに過ぎぬ。「夢と夢の間」に言葉がある、というよりは、
言葉と言葉の間に夢があるのだ。

394 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2006/08/31(木) 03:32:55
(最後)

 しかし、このような状況は、あくまで「歴史的」なものであることを、後藤は別の
著作の中で述べている。

「つまり「日常」とは別のどこかに「異様」な世界があるのではない。日常そのものが
異様なる世界なのである。そしてそれは「僕らの日本」が、戦争に負けることによって
はじめて発見された、小説の新しい世界ではないかと思う」
(後藤明生 『小説――いかに読み、いかに書くか』 講談社現代新書 p212)

 つまり後藤は、敗戦直後の自分達の体験が「リアル」であり、それに続く世代のそれが
希薄な虚構だなどとは決して言わないのだ。敗戦を境に、そもそも我々の「リアリズム」
は失われてしまったのである。だから、主人公とその息子の関係も「夢と夢の間」なのだ。
この過激な「歴史認識」は、あくまで希薄な言葉でしか語られ得ない。それが息子の
疑問を前にした主人公の困難であり、同時に本書の野心なのである。

395 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2006/09/13(水) 21:53:50
『あめりか物語』 永井荷風 岩波文庫 2002年改版

 独身者は、いつも「外」に誘われるようにして彷徨いを始める。
 独身者は足音をひそめて、ひとり霧深い夜半の街を歩いてゆく。

「ここに半夜を費やし、やがて閉場のワルツに送られて、群集と共に外に
出れば、冷き風、颯然として面を打つ…………余は常に劇場を出でたる
この瞬間の情味を忘れ得ず候。見回す街の光景は、初夜の頃、入場したる
時の賑さには引変えて、静り行く夜の影深く四辺をこめたれば、身は忽然、
見も知らぬ街頭に迷出たるが如く、朧気なる不安と、それに伴う好奇の
念に誘われて、行手を定めず歩みたき心地に相成り候」
(「夜あるき」)

 しかしどうしたことか、絶えず「外」を求めてやまないはずの独身者は、
今度は家々の窓から漏れる暖かな灯火に吸い寄せられて行くのだ。

「ある日本人は盛に、米国の家庭や婦人の欠点を見出しては、非難しますが、
私には例え表面の形式、偽善であっても何でもよい、良人が食卓で妻の
ために肉を切って皿に取って遣れば、妻はその返しとして良人のために茶を
つぎ菓子を切る、その有様を見るだけでも、私は非常な愉快を感じ、強いて
その裏面を覗って、折角の美しい感想を破るに忍びない」
(「一月一日」)

 それら明るい窓々が懐かしいのは、寂寥や疲れにさいなまれた独身者が、
たとえ一時の気の迷いであれ、家庭主義者に鞍替えしたからなのだろうか。
違うのだ。独身者は、常に「外」を求めてやまないものである。戸外に出た
瞬間、外は「外」であることをやめてしまい、今度は、独身者にとって、
壁に囲まれた家の中こそが「外」となったからだ。全てはガラス窓越しの
風景である。独身者は、その後ろに控える「裏面」だの「真実」などには
一顧だにしない。そして独身者、荷風にとって、4年間を過ごした北米大陸
は、巨大なひとつの「外部」に他ならなかった。

396 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2006/09/13(水) 21:55:29
「自分は走行く電車の中から幾人と数え尽されぬほど、多くの美人多くの
美男子を見た。自分は美人美男子を見る時ほど、現生に対する愛着の念と、
我と我存在を嬉しく思う事はない。科学者ならぬ無邪気の少女は、野に
咲く花をただ美しいとばかり、毒草なるや否やを知らぬと等しく、道学者、
警察官ならぬ自分は、幸にして肉体の奥に隠された人の心の善悪を洞察する
力を持っていないので美しい男、美しい女の歩む処、笑う処、楽しむ処は、
すべて理想の天国であるが如く思われる。」
(「夏の海」)

 こうした独身者の彷徨いは、しかし行き着く場所を知らぬ、魅惑によって
呪われた永久運動に他ならない。

「夢、酔、幻、これ、吾らの生命である。吾々は絶えず、恋を思い、成功を
夢みているが、しかし、決してそれらの、現実される事を望んでいるのでは
ない。ただ、現実されるらしく見える、空(あだ)なる影を追うて、その
予想と予期に酔うていたいのである」
(「おち葉」7)

「自分は結婚を非常に厭み恐れる、と答えた。これはすべての現実に絶望
しているからである。現実は自分の大敵である。自分は恋を欲する、が、
その成就するよりは、むしろ失敗せん事を願っている。恋は成ると共に煙の
如く消えてしまうものであれば、自分は、得がたい恋、失える恋によって、
わずかに一生涯をば、まことの恋の夢に明してしまいたい――これが自分の
望みである」
(「六月の夜の夢」)

397 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2006/09/13(水) 21:56:10
 一見すれば気恥ずかしいほどキザな大見得だが、実はこれらは独身者の
峻厳なマニフェストなのだ。絶えず「外」へ「外」へと横滑りして行くこと。
独身者にとっての恋とは、この終着点を持たぬ無限運動そのものに他ならない。
冬にあっては夏を、夏にあっては冬を夢見る独身者にとって、最も美しいのは
夏や冬そのものではなく、それらの間の移行の瞬間である。

「一閃の朝日が、高い見世物の塔の上に輝き初めた――ああ、何たる美しい
光であろう。自分は一夜、閉込められた魔窟から救い出されたように感じて、
覚えずその光を伏拝んだのである」
(「暁」)

 しかし、その光が独身者の最終的な救いとはなりえないことは、もはや
言うまでもない。また夜が来て、朝が来る。

398 :白石昇 ◆ywq0.8TYV6 :2006/09/13(水) 22:24:18
09月09日 或る女            有島武郎 角川文庫

399 :白石昇 ◆ywq0.8TYV6 :2006/09/20(水) 04:18:43
09月17日 内灘夫人           五木寛之 新潮文庫

400 :白石昇 ◆ywq0.8TYV6 :2006/09/30(土) 18:45:23
09月30日 剣客商売           池波正太郎 新潮文庫

401 :白石昇 ◆ywq0.8TYV6 :2006/10/09(月) 07:14:57
10月07日 丸裸のおはなし        佐藤愛子 新潮文庫
10月08日 作家志望者          小 アリの穴
http://ana.vis.ne.jp/ali/antho.cgi?action=article&key=20061007000030

402 :白石昇 ◆ywq0.8TYV6 :2006/10/13(金) 21:59:30
10月12日 翔んでる警視正 平成篇1   胡桃沢耕史 文春文庫

403 :白石昇 ◆VJQ7nZOkww :2006/10/14(土) 18:21:09
10月14日 日本人ここにありB成功編  梶山季之 角川文庫

404 :白石昇 ◆VJQ7nZOkww :2006/10/19(木) 22:47:21
10月18日 麦屋町昼下がり       藤沢周平 文春文庫

405 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2006/10/19(木) 23:13:30
『詩めくり』 谷川俊太郎 マドラ出版株式会社(って何モノ?) 1984年

楽しかったです。

406 :吾輩は名無しである:2006/11/01(水) 18:45:30
件名:削除を求める
日時:2006年10月30日 23:46:52

貴殿の下記の記述は、私(福永正明)の名誉を毀損し、誹謗中傷するものであり、本メール到着後2日以内の削除を求める。

なお、削除を実行しない場合には、関係法規に従い法的措置を執る用意があることを通知する。

2006年10月30日
筑摩書房刊行「インド旅案内」執筆者
福永正明

http://yondance.blog25.fc2.com/
「分け入っても分け入っても本の山」より、名誉毀損の記述内容の引用

407 :吾輩は名無しである:2006/11/01(水) 21:34:14
ペンギン666 URL @
10/31 23:58 . なるほど。
たしかに名誉を毀損しかねない記述はありますね。

「だれからも嫌われる旅行者がインドにはいる。 」
「古株ぶって、やたら先輩風を吹かせる」
「自分がいちばんインドをわかっていると勘違いした男」
「本書を読んで思う。たしかに福永正明先生は問題がある。
人間的な問題が! 大問題が!」

誰からも嫌われている、先輩風を吹かせる、
勘違いしている、人間的な問題がある、
そういった点を具体的・理性的に説明していないのは、
大いに問題です。

事実であっても相手の名誉を毀損する内容は
名誉毀損に問われる可能性がありますが、
出版・公開されている文書と作者を、
具体的な説明を伴って理性的に批判するのなら問題はないでしょう。
もちろん、それでも告訴は可能ですが。

ところで「削除しないと告訴するぞ」といって実際に告訴しない場合、
脅迫罪や強要罪に問われる可能性があるそうですよ。

408 :吾輩は名無しである:2006/11/01(水) 21:34:53
ムー大陸 URL @
11/01 00:41 どうでもよい横槍です。. 

>さっそうと逃げます。

これは日本語としてへんなんじゃ…?
「さっさと逃げる」ではないかと。
すみません。
応援してます♪

409 :吾輩は名無しである:2006/11/01(水) 21:35:40
Yonda? URL @
11/01 19:48 ペンギン666さんへ. 

デリケートな問題にコメントをいただき、ありがとうございます。
わたしも名誉毀損問題をいろいろ調べてみましたが、いまいちわかりません。
ひとさまざまです。
有名作家はいくら批判されようがいちいち訴えたりしません。
これは度量の大小と関係あるのかはまだわかりません。
福永氏からの返信がないからです。
まあ、期限は今日まで。そのうちわかることです。
結果は「本の山」で報告いたします。
よろしければもうしばらく見守ってください。

410 :吾輩は名無しである:2006/11/01(水) 21:36:41
Yonda? URL @
11/01 20:17 ムー大陸さんへ. 

さっそうと返答します。
たしかに変です。日本語を間違えています。
グーグル検索で何件ヒットしようと誤記は誤記です。
ご指摘、ありがとうございます。今後、注意します。

ううむ。どうでしょうか。
この場合は「さっさと」よりは「早々と」のほうがいいような。
早々と退散する。
「さっさと」では、かのインド学者が疫病神かなにかのようです。
敬して遠ざかるというのが、表現したい逃亡方法でした。

>応援してます♪

法廷へご登場願うことも、あるいはあるかもしれません(笑)。
そのときはよろしくお願いします。
いざとなったら、仕方がないとあきらめます。
「訴える」といいさえすれば、批判をもみけせるという風潮を作ってはいけません。

411 :吾輩は名無しである:2006/11/01(水) 21:38:10
Yonda? URL @
11/01 20:22 Kさんへ. 

間違えてコメントを消してしまいました。
Kさんのコメントは以下です。
うっかりしていました。ごめんなさい。お許しください。

>「福永正明」でググるとここが3番目に出てくるんですね。
>4番目に出るアマゾンの書評は全て好意的なので、
>Yonda?さんみたいな意見もあると公平でいいことだとは思うんですが、
>いかんせん目立ちすぎてしまったということでしょうか。
>しかし言論弾圧はジャーナリズムの宿敵ですから、削除する必要はないと思いますね。

わざわざ調べてくださったようで。
ありがとうございます。
なんでこんなにグーグルから好かれているのかわかりません。
人間にはあまり好かれないのだから、なんとも皮肉なものです。
いまのところ削除をするつもりはありません。
福永氏の返信を待っているところです。

ですが、これで名誉毀損が成立するのならおかしな話。
ネット上には無数の書評サイトがあります。
どれも対象をほめているものばかりではないのは当然でしょう。
著者がそれらサイトを名誉毀損で訴えたという話は聞いたことがありません。
うちが初めてのケースになるのかもしれないと思うと複雑な気分です。

412 :吾輩は名無しである:2006/11/01(水) 21:38:57
ムー大陸 URL @
11/01 20:56 ごめん世間知らずで. 

>法廷へご登場願うことも、あるいはあるかもしれません(笑)。

名誉毀損って民事だったっけ、刑事だったっけw

413 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2006/11/14(火) 23:53:37
『新釈雨月物語・新釈春雨物語』 石川淳 ちくま文庫 1991年
『現代語訳 日本の古典 雨月物語・春雨物語』 後藤明生 学習研究社 1980年

414 :吾輩は名無しである:2006/11/19(日) 16:15:14
「罪と罰」江川卓訳 岩波文庫 2005
再読。
これをはじめて読んだときは殺人を扱っていてもちゃんと文学作品になるんだと驚いた。
それと作者が登場人物をこれでもかと悲惨な状況におとしこむところがいやだった。
以降ささやかながら読書体験を積んで、ギリシア悲劇やシェイクスピアなどで
昔から人殺しは重要なテーマであり、社会の底辺の人々の惨めな暮らしを描き
読者の哀れを誘うのは、ユゴーやディケンズなど19世紀の文豪によく見られること
だと知った。
今「罪と罰」を読んで感じるのは主人公ラスコーリニコフの現代性です。
ある程度教養はあるけれどそれを生かす術がなく、自意識ばかりが高い
「高等遊民」は身の回りを見渡せばあちこちで見かけることができる。
誰より自分自身の中に。

「謎とき『罪と罰』」 江川卓 新潮選書 2005
「罪と罰」を「巧妙なからくり装置」であるとして「罪と罰」を深読みしている本。
この「謎とき」では予審判事のポルフィーリイが最後に登場する場面で
人が変わってしまったようになるところを解釈するところが一番面白かった。
これは今回「罪と罰」を読んで私も気になったところだった。
今までポルフィーリイは刑事コロンボ的役回りとしてとらえていたけれど
見方によってはなかなか奥が深い人物ですね。

415 :吾輩は名無しである:2006/11/19(日) 20:56:00
辻仁成「クラウディ」読了。
噂には聞いていたが、ひどい小説だ。
描写が稚拙。一生懸命恰好いい表現をしようとしているのが鼻につく。
自由だとか、亡命だとか、そういうテーマも幼稚な感じがする。30歳ならもっと他のこと考えろ。

416 :吾輩は名無しである:2006/11/24(金) 20:50:53
「七王国の玉座W」 ジョージ・R・R・マーティン ハヤカワ文庫

文庫になってくれて本当に嬉しいシリーズ
純粋にコレ面白い!と思える本なので、是非読んでみて欲しい
いやしかし、あっちこっちで色々起こって大変だ…早くXも読もう

417 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2006/11/30(木) 03:13:51
『神秘の島』(上)(下)
J・ベルヌ 作 清水正和 訳 福音館書店 1978年

418 :吾輩は名無しである:2007/01/22(月) 22:45:43
「野火」 大岡昇平 新潮文庫 2006
再読。
これを読んで気になるのは、主人公が人肉を食べることには良心の
呵責を感じているのに、フィリピン人の女を殺したことにはそれほど
心を動かされていないこと。
女に銃を向けた瞬間こそ、彼の左手は右手を止めるべきではなかったか。
もっとも、少年時に知った「性的習慣」(58頁)のときも
左手は右手をとめなかったらしいです。

「武蔵野夫人」 大岡昇平 新潮文庫 1983
昔から何度も読みかけては途中で投げ出していたこの本をついに読破。
舞台や人物の説明の続く第一章で、はやく本題に入らないかと
いつもイライラしてしまうのです。
けれどここに、「いずれ宮地家は死に絶える」という予言(11頁)や
催眠剤を手に入れる(16頁)という物語の伏線があるので
決して軽んじてはいけないのでした。
ストーリー自体は言ってみれば小金井のエンマ・カレーニナと
若い復員兵の悲恋。

419 :吾輩は名無しである:2007/02/06(火) 00:08:28
.

420 :吾輩は名無しである:2007/03/23(金) 22:14:01
「事件」 大岡昇平 新潮文庫 2006
ある町で起きた殺人事件を裁判の模様を軸に描く。
裁判所の内幕物としては取材不足な感じ。
なにより弁護士だけかっこよく描き過ぎ。
また推理小説として読んでもドキドキがなくつまらない。
後半になって都合良く殺人の目撃者が現れたりして興ざめです。
殺人犯が被害者の夢を見るところを引用
「宏も夢を見る。ハツ子はまだ生きているので彼はもう一度殺さなければ
ならない。ハツ子の顔が子供みたいな表情をとり、目の前から消え失せる。
しかしなんども起き上がって来て、彼の方へ手を差し伸べる」
リザヴェータ(罪と罰)ですね。

「小説家夏目漱石」 大岡昇平 筑摩書房 1992
大岡が30年にわたって漱石について書いた文章や講演をまとめたもの。
前半に漱石の初期の短編「薤露行(かいろこう)」に関する江藤淳との論争が
収録されているけれど、こんな論争に興味ある人はいるのだろうか?
未完の「明暗」がその後どう展開していったのかを推量する
「『明暗』の結末について」だけおもしろく読んだ。
大岡は『明暗』を子供の頃読んだときはちっともおもしろくなかったけど
「……こんどこの講演をするために、読み返したら、面白かった。
もっともその意味は複雑で、諸家の異なった様々の議論を導き出すテクスト、
パズルとしてのテクストの興味でした」と言う。
漱石に対するこういう接し方は近年漱石について書く人によくみられると思う。

421 :白石昇 ◆VJQ7nZOkww :2007/04/06(金) 14:27:13
12月28日 背徳のメス         黒岩重吾 角川文庫
01月01日 女坂 円地文子       角川文庫
01月08日 伊賀忍法帖         山田風太郎 角川文庫
02月11日 生きてゐる兵隊       石川達三 角川文庫
02月14日 人間コク宝         吉田豪 幻冬舎文庫
02月20日 まんぞく まんぞく     池波正太郎 新潮文庫
03月07日 孤剣            藤沢周平 新潮文庫
03月13日 特務工作員01        大藪春彦 徳間文庫
03月24日 ソウル・ミュージック ラバーズ・オンリー 山田詠美 角川文庫
04月01日 雪の炎           新田次郎 文春文庫

422 :白石昇 ◆VJQ7nZOkww :2007/04/06(金) 22:34:46
>>421訂正。

×人間コク宝→○男気万字固め

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