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【今】火圏【吉本隆明2】

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/20(火) 09:25:26 ID:3CUiZiFk
わたしたちは風景の呼び名を忘れていた
わたしたちは風景と地史とを忘れていた
わたしたちが何故存在せねばならないかを知らなかった
わたしたちは人間のこころを信じられなかった

わたしたちはビルデイングや街路や塵埃のたぐいといつしょに
火圏のしたに佇つてゐた

2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/20(火) 14:12:21 ID:mXtWw3eG
おッ、自慰サンで2ゲトか。

3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/20(火) 18:17:03 ID:3CUiZiFk
 吉本って詩人として出発した、ていう経緯、意外に知られてないんじゃないかな。
 一時期は毎日、最低一篇は詩を書いていたと本人が記している。

 全著作集には習作時代の詩が2冊にわたり収録されているが、言葉の濃密さという点では凄まじい。
 詩人としてはたしか80年代後半までは新作を発表している。

 雑誌『現代詩手帳』掲載の対談も60〜80年代にはコンスタントにありました。よく引っ張りだされていた。特に70年代からの鮎川信夫との対談がたしか鮎川の全集の一冊を形成するほどの分量に及んでますね。

 鮎川信夫との関係は、吉本自身、“自分以外の人間と可能な限り垣根を取り払えた唯一無二の間柄だった”と回想してますね。
 実際70年代からの鮎川信夫との対談は、吉本が自身を曝け出す稀有な対談だった。

 それだけに最後の対談、「全否定の論理と倫理」で、途中からあれよあれよと思う間に論争になり、鮎川から吉本の批評への違和感が表明されてゆく、その過程がすごく象徴的だった。

 はっきり言えばあれは当時吉本が書き続けていた『イメージ論』への違和感だったと思うけども。宮澤賢治への違和感も表明していた。宮澤賢治は吉本の初期から傾倒した作家だから、その辺で、むしろ鮎川は吉本を核心的な部分で否定、するに到った、と思えた。

 その辺のやり取りは、長年の関係の終わりであり、同時に旧世代との断絶がここまできたか、と読む者に思わせる熾烈さを感じさせるものでした。

4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/21(水) 01:01:23 ID:LP+jsffr
 鮎川信夫との最後の対談での突然の論争、というより、出だしは三浦事件の解釈をめぐるものだったが途中からは鮎川による吉本への違和感の表明に変わった。
 『マス・イメージ論』に代表される当時の吉本の批評は、鮎川からするとマス・カルチュアに、鮎川からすると子供っぽい文化に迎合するもの、に恐らく見えていた。対談での鮎川による批判を思い返すとそのように鮎川には見えていたことがわかる。

 鮎川信夫というのは、文壇の中でも先端的な感覚にたいして開かれた思想の持ち主、と俺などは受け取っていたが、あの対談での鮎川を読んで、その鮎川でも吉本の『イメージ論』での立場にはついて行けないものを感じていたことがはじめて分かった。

 鮎川による批判は、当時の吉本の変貌が旧読者にとってどれほど受け入れ難いものかをよく表していた。
 すでに埴谷雄高との論争で、資本主義がどのような段階に来たかを宣揚し、その変化、資本主義による無意識的実現に肯定的分析をした吉本にとって、旧い構造図式に則って批判を繰り返す埴谷を含めた勢力はまともに付き合うには値しないものだった。

 そこでは消費社会の到来がもたらす社会の無意識に吉本は肯定的であり、それがもたらす旧世代との訣別があった。鮎川はそこで吉本に別れを告げた。それは象徴的だった。

5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/21(水) 18:50:46 ID:LP+jsffr
 猫々堂から松岡祥男が出し続けている『吉本隆明資料集』というシリーズがある。これは東京都内だと、新宿御苑前にある書店、模索社、八重洲ブックセンターに置いてある。

 内容は、雑誌に掲載されたまま、単行本化されてない座談会、あるいは単行本化されはしたがその版元が倒産などしてもう読めなくなっているもの、あるいは単行本の元になっている雑誌の初出版を掲載したりしている。

 この『資料集』でしか読めない座談会や講演、質疑応答はけっこうな数にのぼる。

 70年代後半の小林秀雄をめぐる座談会(饗庭孝男、桶谷秀昭、佐藤泰正ら)、80年代東海地方の同人誌『菊屋』のフェスティバルでの公開座談会(加藤典洋、竹田青嗣、橋爪大三郎ら)、あるいは60年代の講演後の質疑応答、などなど、重要な記録として読めるものがかなりある。

 中でも重要と思えるのは、いまだ単行本化されていない『心的現象論総説』を、順に収録して出版していこうとしていることだ。これは、公式版としてはいつ出るかまったく定かでない、しかも重要な作品なだけに収録には大きな意義があると思われる。

 猫々堂の発掘作業をみてゆくと、吉本隆明という存在が同時代のもっともリアルな問題とたえず格闘してきたこと、を改めて感じてしまう。

6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/23(金) 18:43:22 ID:rT0EZisa
あげ

7 :  ◆UnderDv67M :2007/03/25(日) 21:07:11 ID:0EXKdoHM





     今からあおむしくんが葉っぱを捜して通り過ぎます。
  通り過ぎるだけなので、このスレの内容には何ら関知しません。

              _
            /ヾ;. `ヽ
           ゝ  ● ノノ⌒//⌒//⌒ヽ
           (_・ヽ___/_ヽ// .. // ..  )
              〃〃〃~~u^u^u^u^^'∪  モソモソ







8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/26(月) 08:42:36 ID:qlSUi06w
今や勃起も出来ないのに何故自慰さん?

9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/26(月) 18:39:49 ID:HGSyYuUd
そーいうこと訊くのあり?
そんだったら、自分で立てないのに何故自立の思想?

10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/31(土) 11:38:49 ID:UUaNQWmp
スレタイが爺サンのせいか、活気がねーな。

11 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/04(水) 14:39:02 ID:8PeEa1Ba
哲板じゃ、「爺さん」じゃなくって「自慰サン」らしいぜ。
オナニーも出来ない自慰サンと。

12 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/08(日) 02:02:02 ID:aFsfmM43
 宮台真司と北田暁大との対論『限界の思考』を読むと、或いはその他の宮台の最近の発言にもあるでしょうが、過剰流動性、入れ換え可能性に耐えきれない実存がメンタルヘルスになる、と言っている言説が目につきます。

 宮台はそこから、超越的価値は必要だ、という考えにシフトした、と述べている。おそらく宮台のここ数年の発言の根底にその見方がある。以前のようなブルセラ肯定を言わなくなった背景にそのような移動がある。

 しかし、吉本の言説と比較した場合、宮台のそのようなシフトには危うさがあると思えてきます。
 それというのも、過剰流動性に耐えきれないことは実存にたいし、メンタルヘルスに向かわせる要因となるのか、という問題があるからです。

 人が精神障害にかかるときに、そのような形而上学が関係しているのか。それは大きな疑問になります。超越的価値へ向かわせることがそこから導きだされるだろうか。

 メンタルヘルスに向かわせるものとは、もっとより内面的な歴史に関わるのではないのか、ということ。そこを宮台は誤解してはいないか。その危惧がある。

 吉本の理論によると、人が精神的におかしくなる要因は、胎児期・乳児期に遡ることでみつけるこてができる。そこには大きな示唆がある。
 一方、宮台は酒鬼薔薇の事件から、実存の内面史には立ち入らない、という方法を採っている。

 内面は解る訳がない、というのが宮台の理論形成で内面への禁欲さを形づくっている。だから宮台はそこに触れないまま人間を見ざるをえない。それは一つの確固たる方法ではある。しかし、その方法では、少なくとも全体は断念されている、と言わざるをえない。

 人間が内面を、或いは内面史を孕む存在であるにもかかわらず、その方法はそこに立ち入らない。それはもっぱら社会や国家やに分析を限定せざるを得ない、それは全体を見ないことを意味しないか。

 吉本の思索の方法として重要なのは、異なる領域を重層的に論じるその仕方にある。つまり、そのような仕方で全体をつかむ方法への模索が考えられている。つまり、社会と個体の内面と、どちらも揺るがせにはしないわけです。

 思索の方法の問題が、全体とは何か、と問いかける場合、宮台の方法には見えると思えます。

13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/08(日) 09:16:39 ID:7ayISBIf
鉄板の自慰サンスレにもあったけんど、
心的現象論(本論)ってスッゲー高価だよね。

14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/09(月) 01:02:50 ID:w5oaJzim
 訂正。“人が精神障害にかかるときに、そのような形而上学が…”というより、“そのような社会学が”と言い換えた方が適切でしょうね。

 僕は宮台がブルセラ女子高生のメンヘラー化から超越性へシフトする移動、というのには錯誤がある、と読む。

超越的価値への構築の意志を宮台が以後復活させる、勿論そこに宮台らしいロジックは随所にみえて、そこはさすがだと思わせられるけども、大筋のところでその部分だけは違う、て思います。

つまり構築への意志は無効だし、無効を知りつつポーズする必要もない。唯一、〈世界〉の根源的未規定性を感じ取ることを彼が前面に打ち出している、そこだけはなんか面白いし、何かが出てくる可能性も感じるけども。

 真性右翼、とか彼が言いだす。真の伝統は対象的ではない、と。それはまた解るわけで。しかし、そこから日本の国家論とかに向かう必要はないと思う。むしろそこは、吉本がやっているように、遡行と前進は同じ、起源と未来性は同じ、というふうに考えた方がより良い、と。

15 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/09(月) 07:54:06 ID:w5oaJzim
 宮台の思考は多岐に渡るけども、彼が個体の内面の領域に触れないところ、そこは先のレスにおけるメンヘラーの位置付けにおいて、今の彼の方向を決定づけたし、宮台と吉本の重要な差異の一つではないか。

 そこでの宮台の方向を考えてみると、60年代以降の現代思想の方向と軌を一つにしていると思える。つまり、内面を括弧に入れ、そこからは距離をとる。

 ちょうどドゥルーズなどが『アンチ・エディプス』を書いたころに、精神分析への警戒を露わにしていた発言があったけども、それと類似の姿勢があるような感を受ける。

その距離のとりかたは解るところはあるが、しかし、人間が精神を孕み、また、さまざまな要因で異常をきたす存在であることは無視はできない。個人史というものは無視はできない。紛れもなく個人史による異常の発現はある。精神障害にたいし、そこを無視はできない。

 酒鬼薔薇のときも同じだし、個人史へは触れないまま、触れないで語れるところのみを問題にする。それが宮台の方法であり、そこはずっと維持されている。個人史があることは感知してるけども、あえて触れない。

 遡ればこれはマルクス主義の孕む問題でもある。「社会的諸関係の総体」へ人間を規定してしまうことの問題でもある。マルクス自身は個体の恣意性や情念を大事にする人だったが、マルクス主義ではマルクスのその側面は捨象されたということ。

 心的現象というものの存在を自己の世界認識に繰り込むか否か、という問題に入ってゆくのではないか。社会性や共同性と同じ比重で繰り込むのが吉本の特徴で、そこが分岐点になる気がします。

16 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/09(月) 08:34:05 ID:q4iJ6GiU
13
本論が出たって、分冊本でなくって、
一冊にまとめたものかしら?

17 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/09(月) 10:22:50 ID:w5oaJzim
 宮台による吉本隆明読解として宮台のインタヴュー集『inteviews』所収「思想家としての倫理」を挙げることが出来ます。そこで宮台は13頁に渡って彼が学生時代からどのように吉本を読んできたかをつぶさに語っています。

 そこで宮台が語っている吉本読解はそれなりに面白さを持っている。幾つかあって、まず宮台によれば、吉本の言う「大衆」は、80年代以降、一括りには出来なくなった。なぜかといえばと宮台は語る。

《まず物質的な豊かさが一定レベルまで達成された結果、モノの豊かさという国民的に共有された目標が消えます。

以降、何が幸いなのかが、各人ごとに分化します。その結果、消費動機も宗教動機も犯罪動機も、急速に不透明化し、「隣は何をする人ぞ」という状況になります。》(『inteviews』200頁)

《「我々」という言葉遣いに対しても、それってオレも入るのかという感覚が拡がり、もはや「大衆」という言葉を支えていたようなコミュニケーションの共通前提が消えてしまう。》(『inteviews』200頁)

 これに加えて、80年代以降では、吉本のような分析方法では割り出せない状況になった、と宮台は語る。

《確かに80年代以降の「分衆化」した―私の言葉では「島宇宙化した」―状況において、「何が原因で、何が起きているのか」という因果把握は、吉本の方法では不可能になりました。》(同書202頁)

《例えば心理学には「内観法」という方法があります。感情移入によって対象になりきって、どのように世界が見えているかを自己理解しようとする。吉本の方法には、内観法と同様の限界があります。これがダメななった。》(同書202頁)

 そこから、つまり近代成熟社会の日本での現れにおいて、内観法で把握できないと見切った宮台は、代わって統計学、社会システム理論によって把握する必要を痛感するにいたった。そうして、個人の内面へは触れない、という方向へ向かった。

《(個人の内面を)私は分かろうとしません。正確に言い直せば、勿論個人的に理解しようとはするけれど、それで自分が理解しえたと思ったことを、あたかも理解できたかのように語る方法は採らないということです。そこには明らかに方法的な無理があります。》(同書203頁)

18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/09(月) 11:22:24 ID:w5oaJzim
 吉本の方法を内観法と括ることが出来るのか、という疑問がまずあります。

 個体の内面へ肉薄しようとする場合、まず吉本なら、体系を構築するだろうと思います。この場合の体系とは無論『心的現象論』なわけですが、これを応用しようとするだろうと思います。つまり、単純な感情移入ではないという点が重要である。これを宮台は読み違えている。

 それから、情況をつかもうとする場合、吉本ならば、重層的に攻めてゆくだろうということは、彼の読者にはよく知られている。

80年代以降の情況をつかもうとする場合、まず具体的な数値を使った消費社会論によって大情況の見取り図を描く。同時に経済概念や社会概念の根本的な練り直しをする。

 同時に、心的現象論によって個体の内面の歴史性を描く。同時に精神概念を検討する。そのようにして、具体的な事件や個人へその体系を適用してゆく。

吉本の方法とはそのようなものだろう。まず単純な内観法ではない。そうやって具体的な事象へと肉薄しようとするのが吉本の方法だろう。あくまで体系的だという特徴があり、それの構築が一大作業となる。ただ、構築された場合、応用がきくという利便性がある。

また、感情移入のもたらす弊害を避けることもできる。

 そのようにして、具体的なものへの道筋をつけるのが吉本の方法だろう。それは60年代から一貫した方法だといえる。

 なにより不思議なのは、かつての吉本愛読者を自認する宮台がこれくらいのことを理解しないで、内観法が吉本の方法だ、それは今や通用しない、として吉本について何かを言った気になり済ましてしまっているという点にある。

 上記のインタヴューの中でまた、宮台は成熟社会の到来とともに吉本の敵視した「知識人」は消え、また、思想的根拠とした「大衆」も消えてしまった。よって吉本は任務完了となり、用済みとなった、と述べている。

 宮台真司の存在はどこからどう眺めても知識人であり、たまに対象について分かったような顔をして過ちを言い、しかしそれでも原稿料や取材料をもらい、それで生活している。それは今更珍しくもない知識人である。

 また、宮台がそこで稼いだカネでマンション住まいをし、休日には家族とショッピングを楽しみ、また、友人と待ち合わせをして飲み屋に出掛け、酒を飲んで騒ぐ。夜、マンションのローンがあと何年かかるか計算してみてうんざりする。

それは紛れもない生活者であり大衆だといえる。宮台はでたらめを言うべきではない。

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